もし、使う道具に差がないとしたら?
プロとアマチュアの違いはどこにあるのだろう - 最近、折に触れてはそんなことを感じることが増えてきたように思っています。私の場合、翻訳の現場から周囲を見渡してということがおおいのですが、たとえば
- 文字を書く
- 写真を撮る
- 画像を加工する
- レイアウトする
- 印刷する
- Webに公開する
などなど
プロとアマチュアどちらの作品か、一見して見分けがつかないというものに出会う機会が増えていると思いませんか? もちろん私は写真のプロではありませんから、そりゃ一目瞭然じゃないか! とお叱りを受けるかも知れませんが^^; 撮影してからリタッチをされてしまうと、オリジナルの写真なのかどうかさえ見分けがつかなくなってしまいます。
文字を書く - これは書道家の方が書く「書」ではなく、言葉を書くという意味で言っていますが、言葉を並べ、文章を書くための環境はiPhoneやスマートフォンのような手のひらサイズのデバイスひとつあればよい。そうした環境は、プロもアマチュアもあまり変わらないのではないかと思う時代になりました。少なくとも、翻訳という分野で見ている世界はそう見えます。
だから素朴な疑問として、原稿用紙とペンという道具に机という環境で言葉を並べ文章を書いておられるプロの仕事というのはどんなものがあるだろうと思ったりしているのです。
もちろん、プロとアマチュアの違いは言うまでもないでしょう。
言葉を扱うプロは言葉を扱うプロとして、写真を扱うプロは写真を扱うプロとして、絶え間なく技術を磨き、無尽蔵とも言えそうなほどに基礎知識・関連知識、予備知識を体得し、その技術と知識を結集して作品を完成させる - しかも、お金を出して買ってもらえる作品を作る。アマチュアは、お金を取れるものをではなく、個人の満足・歓びのために作品をつくる人ということになるのでしょうか。
その定義がどれほど正しいかという問題はさておき、なぜプロとアマチュアの違いなどということを考えるようになっているのかと言えば、その道具が、ずいぶん色々のところで差がなくなっているように感じるからです。
道具に差がないとしても、毎日読んでいる言葉や文字の数は、一般の人よりもはるかに多いだろう、ましてやそれと同時に書いている言葉や文字の数は、一般の人より圧倒的に多いはず・・・翻訳の現場にいる人間だから・・・と思うのですが、プロだから書ける言葉、文章を書いているだろうかという反省のような、自戒のような感覚が湧いてくるのです。
オブジェクト指向の進化
私はPCを仕事のツールとし、Windowsの世界に慣れ親しんできたのですが、仕事の効率化を目指して踏み込んだプログラムをする中で、それまでのMS-DOSからオブジェクト志向のシステムへという言葉にであったことがありました。 たとえば、
- 文字を入力する
- ページをレイアウトする
- ファイルを作成する、保存する
- 印刷をしたり
- スピーカーをならしたり
- ネットワークに接続したり
- 動画を再生する など
PCで行う、数え上げればきりのない、普段何気なくやっているひとつひとつの操作、作業、それに必要な準備や確認の工程をまとまったひとつのパッケージとして捉え、そのパッケージの集合体としてシステムを捉えるというものです。
例にあげた7つの作業・機能のひとつひとつに対応するパッケージの集合体が、たとえば、
- 日本語文字の入力・変換機能
- ワードプロセッサー/DTP機能(MS-WordやInDesignなど)
- CD, DVD、あるいはクラウドなど
- サウンド機能
- 光回線やWiFi技術
- Media PlayerやYouTubeなど
といった具体的なアプリ、ソフトウェア、ハードウェアになっていくわけです。
その使い勝手や、大容量化、高速化を支えているのがPCやモバイルデバイス、ネットワーク技術などの進化であることはもちろんですが、その進化の恩恵が使う人たちすべてにあまねく行き渡るようになってきた結果が、プロ/アマチュアが使う道具のレベルに差がなくなってきていないだろうかという疑問につながっていると思うのです。
ひとつひとつのアプリ、 ソフトウェア、ハードウェアの使い方やそのコツ、問題点など - ノウハウと呼ばれる技術・知識もプロとアマチュアの間の差がなくなっているように思います。
使う道具に差がなくなっているとすれば、当然なのかも知れませんが、道具が同じでノウハウも同じだとしたら・・・ここでもう一度考えてみたいのです。プロとアマチュアの作る作品の違いはどこにあるのだろうかと。