正しく言葉が使えているか、どうすれば判断できる?
語彙・読解力検定なんていう試験制度があったのですね!^^; どんな人たちが受ける試験なんでしょ⁇
この検定は日本語の力を測るためのもののようですが、外国から日本にやって来て、日本語の力を必要としている人が受けたりするのでしょうか?
その内容は、
- 辞書語彙
- 新聞語彙
- 読解
に分かれていて、日本人でもその気になって、時間をかけないとマスターするのは大変じゃないのかなというものばかりのような気がします。
朝日新聞とベネッセが共同で出版している準2級の教本にこんな問題があります。
この教本、表紙にこんな言葉が印刷されています。
すべての学びは「ことば」からはじまる
小学3年生だったか4年生だったか、算数が苦手だった私は、担任や母親から、この言葉を何度か聞かされた記憶があります。
今の子どもたちもやっているのでしょうか⁇ つるかめ算とか、旅人算とかいうあれです。あれがほんとうに苦手でした!^^;
思考回路がのんびりしているのか⁈ 素直なのか? 嫌だとかやりたくないとは思わず、一生懸命やっているつもりだし、正解できないことがないわけでもなかったけれど、「やった!」「できた!」という達成感や充実感が持てずに、次にやると不正解になったりするのです。
そんな中で言われたのが…
言葉の意味はちゃんと分かっている。読解力はあるのだから、あと落ち着いて問題の意味を考えれば、解けない問題はないはずなんだよね - というわけです。
だから私は、小学3年だか4年生の春だったかの頃には、言われていること、読んでいることの意味が分かるということと、それを「実践できる」という意味で分かるというのは別のことなんだと、感じていたのです。
辞書で分かること、分からないこと
たとえば、私にとっての「分かる」という言葉とその意味。
それは一人ひとり聞いてみないと分からないなというのが私の語感です。
つまり、「分かる」という言葉には
- 状態・状況・形や色、大きさが1つ、そして
- その言葉をどういう状況に結びつけて覚えているか、使うか・聞くか
という2つの意味がある、というのが私の語感なのです。
もちろん、辞書の意味を覚えて置ければそれに越したことはありません。言い換えれば、私たちは、言葉を辞書通りには使っていないことがあると私は思っているのです。
辞書通り話すべきだなどとはまったく考えていません。
むしろ、言葉はそのくらい(どうしようもないくらい と言うべきでしょうか?)曖昧なもので、逆から言えばそのくらい便利なものだという意味なのです。
言葉にはふたつの意味があるけれど、その片方をだいたい分かっていれば、意思の疎通ができるのです。
私が思うのは、この言葉の曖昧さ - ふたつのうち片方あればそれなりの意思疎通ができてしまうという性質を利用しているのが、言葉に関するAIなんです。
みんなが使う事例を途方もなくたくさん解析し、パターン化して「この言葉はこういう前後関係で使う」と計算するのですね。
もうひとつの意味をどう捕まえられるか、理解できるか
そしてこのふたつ目の意味を感じられるか、分かるかで
- 人間関係が決まったり
- 読んだ本が面白かったり
- 感じ方も決まる…
そんな気がするのです。
言葉には
- 辞書の説明のように表せるものと
- 表せない - その人にとってどんなものにつながっているかという - もの
とがある。
みんなに共有できる面と、自分だけ(かもしれない)の面と言ってみると分かりやすいかも知れません。
その自分に特化した面 - もうひとつ - の意味が分かってくると言葉の深み、奥行きが感じられるかも知れない… そんなふうに思うのです。
(ついでに、つるかめ算もできるようになるといいですよね!^^; )