製品といっしょに変わってきた情報の形
もうかれこれ40年ほども前の記事だったでしょうか。
当時、ヨーロッパでも大手の月刊誌が、あまりに好調過ぎる日本の輸出産業 - 特に自動車産業 - に対する警戒感や嫌悪感をタイトルにした号を発行しているのを読んだことがありました。
日の丸をつけた翼、尾翼をつけた日本車が日の丸をつけた鉢巻を巻き、上空からヨーロッパを見下ろすように睨みつけている。日本車を「神風」に置き換え、タイトルは “日本(人)がやって来る”。
アメリカのあと、今度はヨーロッパだという内容でした。
今、アメリカとの関係の中で盛んに言われていた「貿易のアンバランス」はどうなっているだろうと思いながら、新聞やウェブを流れるニュースを読んだりしているのですが、私はドイツ車を中心としたヨーロッパ製の車の記事に触れることが多い分、日本からアメリカやヨーロッパ、オーストラリア、あるいは中近東、アフリカへ動く自動車の数や流れについては少々疎くなっています。
輸出入の話しはともかくとして、当時、アンバランスといわれたアメリカとの関係の中で、日本の企業はもっと現地にお金を落す工夫をしてくれるべきだということも盛んに言われ、また実行もしたものです。
部品の現地調達率を上げよ、現地に工場を建てよ、現地の労働力で生産せよ - 日本のメーカーはそんな要請ひとつひとつに応えていました。自動車に載せる取扱説明書でさえ、現地制作、現地印刷、現地で車載という流れが作られましたから、日本側の制作会社、印刷会社はずいぶん大変だったのです。
だから今、ドイツ車の動きを見ていて思うのです。
あの頃、日本とヨーロッパの関係はどうだったのだろう。今の輸出入のヨーロッパとの関係、アメリカとの関係はどうなっているだろう⁉︎ 日本国内にあのメーカー、このメーカーの生産工場ってあるのだろうか?
このクルマ、あのモデルの部品は日本で作られているものがあるのだろうか? と。
今、マニュアルもカタログも印刷はすべてドイツでという流れがあるのを見て(すべてのメーカーがそうなのかどうかは確認が必要ですが)、日本車のヨーロッパ向けのマニュアル、カタログはどんなふうに印刷されているのだろうと思ったりしています。
たとえば、互いに互いの国で売っている台数のバランスが取れていて、かつての調達率というような問題はなくなっているでしょうか?
日本語版の編集を日本以外の海外で?
そんな疑問がどこから来るのかと言えば、ヨーロッパで編集、印刷されたマニュアルやカタログ、パンフレットです。
ヨーロッパで稼働するヨーロッパ製の編集システム、そして場合によってはヨーロッパで調達された日本語文字(フォント)で編集された日本語版の紙面になんとも言えない違和感を感じることがあるのです。
ヨーロッパで生産と制作のすべてを行ってしまうという発想は合理的と言えば合理的です。
技術的にも、日本語の入力や編集をヨーロッパやアメリカで行うことに大きな問題がないように見えます。Windowsにけん引されたPC周辺の機能のグローバル化によって、「日本でなければ」という壁がなくなってきたように見えるのです。
「問題がないように見える」「壁がなくなってきたように見える」というのがどういう意味かと言えば、問題や壁があるけれどないことにしておこうという譲歩があって成り立っているということ。言い換えれば、「これも日本語」でいいよね、という譲歩です。
たとえば、
「問題がないように見える」「壁がなくなってきたように見える
」というのがどういう意味かと言えば、
というレイアウトを見ても、
言い換えれば、「これも日本語」でいいよね
、という譲歩です。
というレイアウトを見ても、多分みなさんは違和感を感じるだろうと思うのです。鍵かっこ 」 や 読点 、 が行の先頭にあってはいけないという禁則というルールがあるからですね。
私の記事はWordPressで書いていますが、WordPressが表示してくれる日本語の文字の並べ方で「ちょっと変だね」と思うところがありませんか? もともと英語の環境で生まれたWordPressですから、日本語の文字の並べ方に独特の癖があります。
その癖はたとえば、行末に現れるのです。今の私の記事から一例をあげてみると -

〇の位置がなぜ欠けたようになっているかという問題です。
たとえば、文字レイアウトの一例として、それぞれの行に同じ幅になるように文字を並べる 均等割り付け という機能と、禁則 が連動するレイアウトがありますが、WordPressの標準のレイアウト機能では「で、」の2文字を一緒に扱うのが精いっぱいで、1行目の均等割り付けは機能できていないのです。
「で、」の2文字を一緒に扱うというは、そうしないと「、」だけが2行目の頭に表示されてしまうのです。
けれど私たちの方で「異常と感じないで普通に読めるよ」、見え方の微調整をして許容しています。
「これも日本語」でいいよね、というのはそういう意味です。
ヨーロッパで編集した日本語にはこうした新しい? タイプのレイアウトがとても多いのです。
日本人の視覚は「文字の形」に対してとても敏感です。見やすい・見にくいということ - 文字の形 - が、読みやすい・読みにくい - 文章の良し悪し - ということ以前に問題になることがとても多いのです。見にくいとなると読んでもらえないということが起こるのです。
ヨーロッパで編集した日本語版というのは、ですから、「文字の形」「配置」という点でぎりぎりの妥協をしているというケースがよくあるということなのです。
日本語はすべて日本で入力し、日本製や日本語バージョンのソフトでレイアウトすべきということを言うつもりはありません。
ただ、海外現地で一括して生産し、制作しようとする動きがあるとすると、日本語は形が変わっていることがあるということを備忘録しておきたいのです。なぜなら、日本語ほど海外の人たちやソフトウェア、システムにとって扱いがむずかしいものはないからです。この「柔軟のようでいてあまりに敏感」という五感と語感は、中国語や韓国語にはないものだと思うのです。
そうしたわけのわからない? むずかしさはもしかすると、いつの間にかなくなっていても不思議はない - いつの間にか古い日本語、新しい日本語なんていう時代になるかも知れない。だから備忘録しておきたいと思ったのです。