「文字情報」と「言葉」は違うものなのだろうか?
瞬間、瞬間に求められるテキストを日本語にしている…
産業翻訳の世界にいてつくづく思うのは
言葉への - あるいは、伝えるということに思い入れがあるのならば、言葉を生業にするべきではないのかも知れないなということ。
アメーバにもアカウントを持って、(以前よりペースがゆっくりになっていますが)ブログを書いているのですが、どんな思いで言葉に向き合えばいいだろうという雰囲気の記事を書きながらふと考えました。
文字の - 言葉の大量消費 !?
そんな言葉が浮かんでいたのです。
この言葉 どこかで 誰かに届けばいい
そんなふうに思いながら綴っている
そんな気がするようになりました
仕事の話しです^^
紙に書いて残す
そう
桜の木の世話をしていたころ
この木は 災害がなく
人の手が何かおかしなことをしなければ
きっと
ぼくが… ぼくらがいなくなっても
ここでこうして毎年 花を咲かせるだろうと思っていました
桜の木の寿命は… なんて
人の都合や尺度でははかれない自然がある
そう感じていたから
桜と同じように
文字にした言葉は
ぼくがいないところでも 伝えようとしたものを
伝えつづけてくれるだろうと
思っていたのです
文字も言葉も 残るものだと
けれど
AIを育てる時代は
言葉 というものよりも
文字という形の情報があればいいのです
それもたくさん
情報の大量消費ができなければ AIは育たない
だから言葉は 残らなくてもいい
消えていいのかもしれないのです
どう思います⁉︎^^
はしょりすぎた表現で正しいとは言えないものですが、
ビッグデータ+演算処理の性能+アルゴリズム
などの組み合わせが AI や AIの開発を後押ししている - その理解が正しいかどうか、という点と
文字として綴られる言葉 と AI を育てるエレメントのひとつ(文字情報)が同じものか、違うものかという点そして、
今のインターネットという環境+モバイルデバイスなどの機器が作るアクセス環境の中で、求められる文字情報の寿命がひどく短くなっていないだろうかという点
いくつもの要素をどう組み合わせれば自分なりの言葉の哲学が持てるのか - その答えをもう少し探してみたいと感じているのです。