死を考えることが終活のはじまりなのだろうか
私の記事には終活というタグをつけたグループがありますが、私の父、母の最晩年に付き添った経験、そこで私自身が感じたり、対応を迫られたことをまとめたり整理することで、私自身が自分の家族のためにできることを確認しておきたい、準備しておいてやりたいと思ってのことでした。
そんな中、上野千鶴子さんの「おひとりさまの最期」で語られている “在宅ひとり死” という言葉やその実際のことを考えたことがありました。母方の伯父、「連絡がつかないのはおかしい」と、友人の方のひとりが訪問してくれるまで分からない状態で亡くなるという、文字通り “在宅ひとり死” で逝ってしまったことが大きな契機となったのだと思います。
伯父の死は、家族>>葬儀 というつながりで家族のための備えができればと考えていた私にとって、少し異なる角度の自分を考えさせてくれる出来事でした。
死にまつわることでありながら、今自分はどう生きていけばいいか、つまり 自分>>家族 という、血の通った鼓動を感じさせる別のつながりを思い出させてくれるものだったのです。
見たり、読んだり、疑似体験したり… … 時間と労力をかけてじっくりと死を自分の中に落とし込んでいく。お寺やコミュニティセンターで開催されているワークショップで死の疑似体験をしてみることも一つの手かもしれません。そういった死の訓練については次章で述べますが、いろいろな手段で死をきちんと意識するようになっておくと必ずプラスに働くと思います。今度は自分たちが次の世代に死を見せる立場になっていくわけですから。
出典: 玉置妙優さん著・「前を向くために ~死ぬのが怖いあなたへ~」
父や母、あるいは義父、そして老人施設や病院に支えられている義母を見、思うにつけても、そこで感じたこと、学んだことを自分のために残しておきたいと思うのですが….
みなさんにはそんな思い、ありませんか?
この一節で玉木さんが語られているように、5年6年前に逝去している父や母の最晩年やその周辺で出会ったことをまとめ、整理して、理解しようとしてきたことが、私に「死をきちんと意識」させてくれ、「プラスに働いて」くれていたのでしょうか?
“ひとり” であるということ。けれど、共に生きているということ。
私が自分の発想で進めたいと思っている終活が、家族のため、そして何より私自身のためだとしても、私には感じていることがひとつあります。
それは、玉木さんのこんな言葉にも語られています。
表面的な事柄としては、困ってジタバタしないよう、自分はあらかじめ遺言を書いておこうと思うかもしれません。今のうちに子どもにこのことだけは伝えておきたいと改めて気づくこともあるでしょう。
けれど、表面的なこと以上に、身近な人の死が内面に及ぼす影響は計り知れません。(中略)
その中の一つが、人間は徹底的に一人である、という揺るぎない真理でした。生まれてくるときが一人なら、死ぬときも一人。そこにあるのは計り知れない孤独です。ただ、そのことを認識すると、今、隣に誰かがいてくれることが非常にありがたいことに思えてきます。このご縁はなんと稀有なことだろう、と。
ここで私が感じているのは、
とても大切な縁があって誰かが隣にいてくれる… …共に暮らしていてくれるとしても、人の根源はひとりだということ。だからこそ、その縁を大切に育みたいものだと思うこともありますが…
そして、ひとりだからこそ、自分と死の関係をしっかりつかまえておきたいものだと。
しっかりつかまえておけば必ず「プラスに働いて」くれるはずだと。
しかし、大切にしなくてならない縁のことを忘れて、自分のためのまとめや整理だけに邁進するわけにはいかないだろう、ということです。
言い換えれば、たとえば、死を理解したいと考えることが正しい(?) ことだとしても、その、死に向き合おうとしている自分はその縁の中で生きている。
その隣にいる人がいなければ死を思うことも、考えることもなかったのかも知れないけれど、自分が自分の死を考えようとすることが、その人にどう伝わるかということを忘れてはいけないのではないかと思うのです。
どう言えばいいでしょう?
ひとりだからこそ、死との関係をしっかり考えておきたい。
けれど、その自分は、もしかしたら、死を考えるということから離れていたいと思っているかもしれない人も含んだ、大切な人たちに囲まれて生きている。
生きているということと、死を思うということ - そばにいてくれる人を思い、自分を思う ということが、うまくひとつにならないのです。
もう少し時間がかかったら、少しずつでもひとつになってくれるでしょうか?
to be continued …
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