Quality Of Life (QOL) を意識するならば
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自分の両親の最晩年に付き添い、見送る中で経験したホスピスや介護サービスというものを、制度としてもう少しちゃんと理解しておきたいと思ってきたのですが、医療・介護一括法(正式名称「地域における医療及び介護の総合的な確保を推進 するための関係法律の整備等に関する法律」)が施行された今、その理解も含め、もう一度仕切り直す必要があるでしょうか?
その理解のためにもという思いから、参考書? のつもりで選んだ著書のタイトルが 『おひとりさまの最期』 でした。
最晩年をイメージできるだろうか
『おひとりさまの最期』 というのはあまり穏やかな響きの言葉ではないように感じるのですが、穏やかでないと感じているのはもしかしたら、この手の話しは “あとまわし” にしたいという心理が働いているからなのでしょうか?
自ら振り返ってみても、そう言うのは少々酷なようにも感じるのです。
両親が健在であれば、あるいは自分自身の問題としても、それぞれの最晩年を考えるというのはどこから手をつけたらいいのか、今から備えることなんてできるのか、そもそも備えるための力が自分にあるのか - そんなモチベーションの上がりにくい疑問や不安が先立ってしまい、勘弁してもらいたいと感じるだろうと思います。
生命は生きるために生きている - “普段の私たちは死ぬことを忘れているから前向きに生きていられる” - あれこれの経験を通して私はそんなふうに感じているのですが、もしそうであればやはり、あとまわしにしたい心理はまったく無理からぬものだと思うのです。
なぜあえて 『おひとりさまの最期』 なのか
一挙に死ぬときまで話しを飛躍させなくてもといいだろうという思いが片方にあるのに、それでもやはり、できる準備があるのであればやっておきたいと思うのはなぜでしょう。「超高齢化社会」という言葉を耳にしない日がないほど、医療や介護、病院や介護施設のことが報道されているような環境だから、何となく気分が浮き足立っているのでしょうか?
もし、浮き足立っているなどという面があるとしても、自分に関係するかも知れない問題を再確認しておくべきだろうと思ったりするのは、経験してきた介護が私にとってはまだ現実味のあるものだからかも知れません。医療・介護一括法が成立してからやがて2年。母を見送った直後に成立したこの法律で、次は私自身の準備をと思っていたのに、それまでに仕入れた基礎知識の一部を入れ替えなくてはならなくなったと感じたことも、そうした感覚の一因かも知れません。
ただ、『おひとりさまの最期』 というタイトルに囚われずに、将来の自分の生き方をどこまで自分で考え、準備できるだろうということを落ち着いて確認してみたいのですが・・・。
介護施設とか介護サービスのことをどれくらい理解できているか
インターネット上に見つけた中に、こんな記事がありました。
例えば、元気なうちは、今の自宅をリフォームして、夫婦二人で暮らすという選択肢もあるだろう。
(中略)
一方、介護が必要になったら、自宅で在宅介護を受ける選択肢もあるが、家族の負担を考えて、充実した介護サービスが受けられる介護施設に住み替えるという選択肢が考えられる。
出典:suumoジャーナル
「4人に1人が65歳以上。本格化する高齢化社会での住まい選びをどう考える?」
私には、これから先、自分の将来を考えるための参考になるだろうなと感じる記事ですが、ちょっと注意したいのです。
「介護が必要になったら・・・ 住み替える」 - これを、”介護が必要になってから住み替えに必要なあれこれをはじめる” という感覚で読んではいけないだろうと思うのです。
“充実した介護サービスが受けられる介護施設” がどういう施設を意味するかは人それぞれでしょうが、少なくとも、要介護3以上の介護レベルでなければ新規に入所させてもらうことはできなくなった特別養護老人ホームはこの候補に入れることはできません。
なおかつ、その時に “住み替え” を自分で進められるかという問題があります。「介護を必要とする」レベルは一概にこれと言えるものではありません。精神的な障害を持つ状態であれば、介護レベルの認定を受けるというステップから必要になる申請や申込み、契約を誰がどう進めるかということが問題になるでしょう。
さりとて、介護施設への事前予約というのはどれほど可能なものなのでしょうか? 医療と介護を同時に必要とするような介護レベルであれば、施設選びの条件も複雑になるでしょう。
「介護が必要になったら・・・ 住み替える」 というような、介護とか介護サービス、その利用といったものの具体的な意味をイメージできることがこれからは多分、必要になるのだろうと思うのです。
緩和ケア、看取りを在宅で? - 予備知識や情報の必要性
私は母のための医療と介護を緩和ケア施設の助けに頼ったのですが、10年、20年も前から在宅での緩和ケアとか看取りといったアプローチに取り組んでいる人たちがいたということを知ったのはここ1年、2年のことです。
在宅での看取りというような言葉が今ほど普通に、テレビの中でも語られるような環境になってきたと感じている私は、人生の終末期をどう過ごすか、その選択がほんとうに身近なものになっているのだなと感じるのです。
そして、そんな選択肢を意識することができたら、安心した、自分のための最期を考えることができるものだろうかと思っているのです。
制度やサービス、支援について学ぶことの意味
母のがんが末期の緩和ケアを必要とする状況になる直前、在宅で最期を迎えさせることはできないものか、家内に介護を任せてしまうような方法ではなく、自分の手で支えてやることはできないものか、入浴やトイレの介助や世話など母が感じるであろう抵抗感を感じさせないで済ませる方法はあるのか、そのためにどんな準備や誰に支援してもらえばよいかと色々なことを考え、最寄りの大学病院の介護サービスを提供してくれる部門に相談に行ったり、がんセンターのソーシャルワーカーに相談したり、母の介護レベルを再認定してもらうために役場に連絡したりとずいぶん動き回ったのですが。
ただ、在宅での緩和ケアとか在宅での看取りという知識もなく、そうした支援を受けることができるのか、どこへ相談しに行けば良いかまでは思いが至りませんでした。
いつ大出血を起こしても不思議はないと説明されていた病状へのイメージに思考が囚われてしまっていたのかも知れません、本人にとっては苦しい、見守る兄妹たちにとってもあまりに衝撃的な病状の急変は避けてやるべきだろう、まずは本人が安心できる環境においてやることで私自身も次の可能性を探すことに集中できるのではないかと考えながら、がんセンターから私設の緩和ケア施設への転院を選んだのでした。
おだやかに最期を語り合えるようになれるだろうか、なれたらいいんだけどと思いながら、もう少し勉強してみたいと思うのです。