守ろうと思うほどに親がついてこれなくなるとしたら
Living Will(生前の意思) を共有して、Quality Of Life(クオリティ・オブ・ライフ / 生活・生命の質) を意識したより良い暮らし方をしてもらえるように - 子どもは、親にとっても自分自身にとっても有益だと思える情報をかき集めて、親の思いをしっかり形にしてやりたいと準備しようとする。
もちろん、そうした新しい情報や、関連した手続きなどは年老いた親には負担になるだろうと思って自分の方でカバーしてやろうと思っている。
かつて、私の母ががんに向き合ったときの経験があれば、余命を確かめ、その時を意識しながら暮らしていこうとする義母の心が重くならないようにと、心をくだこうとするのは、子供にしてみればごく自然なこと。
ただ、親は年老いていく… そのことをよく考えてみれば、懸命に学び、守ってやりたいと思うほど、子どもが語りかけることは親にとって情報が多過ぎて、ついていくことも精一杯… あるいは、ついて行き切れない話しになってしまうのかも知れないなと感じます。
今、自分のからだのことを理解ができているのだから、親がそうやって自分でいられる今のうちに、自分のことを考え、備えてもらえたら…
たとえば、子どもがそんなふうに考えたとすれば、それは現実には(実際には)、介護認定を受ける・受けないという話になったりする。
- 役所に相談してケアマネジャーになる人を紹介してもらい
- 日にちを合わせて自分や自分の生活の状態を診てもらう
- 介護レベルを判定してるもらい
- その通知を受けたところから自分の生活の何かが変わる
- どう変わるのだろうか
- どうすればいいのだろうか
そんなふうに、次から次へと現実が変化するという予感がする。はっきりと、実際の手順は分からなくても、予感はする。
しかも、その予感の先には、想像しきれない、分からないことが起こるだろうという予感もする。予感を越えて恐ろしささえ感じる。
子どもの精神状態・精神レベルなら、不安は言葉にして話しをすることで軽くすることができます。
ところが、年老いていく親の精神レベルにとっては、
- 理解しなければならないこと、
- 整理しなければならないこと、そして
- 対応しなければならないこと
が増えるばかりではないのかと思うのです。
年老いた親は何かがいつもと違うというだけで心のバランスが取れなくなったり、人格が壊れたようになってしまうこともある - かつて病院で、父のせん妄に対面したときのことを思い出せば、
「迷惑をかけたくないから、自分はこのままでいい」
という義母の言葉には、現実の中に自分の立ち位置を見つけられない、恐怖のようなものが混ざっている… そう感じ取ってあげることが、何より本人のためなのだと思うべきなのかも知れません。
もちろん、そこには個性とか性格というものもあるに違いありません。
こうしよう! と言ったり、思ったりしていたことも、いざ行動にしようとすると躊躇したり、言葉を翻してしまう…。
けれど、Quality Of Life のために、少しでも安心・安全に暮らしてほしいから… という、純粋な思いやりから出たことでも… 時間をかけて納得できるようにと心を砕いていたとしても、その方向に進む・進めてやるだけが思いやりではない。
親の迷いや恐怖が、周囲に対する悪口雑言になっていたとしても、まだ理解はできていない… もう理解はできないのかも知れない… と、親のあるがままを受け入れてやることが子どもに求められる思いやりなのかも知れません。
何よりそれが、老いるということなのだ… 自分の親はそれほど老いているのだと認めてやることが必要なのかも知れないのです。頑固だ! とか、人の言うことを聞く気はないんだ! という前に、それほど老いてしまったと認めてやることが本当の優しさなのかも知れないのです。
子どもの側で、思いが大きく深くなることができたら、それが子どもの心を守ることにもなります。
かつて、母は、「自分はこのまま死んでもいいのだ」といって病院へ行くことを拒みました。
その母が、「(他界した父の思いのためにも)手術を受けようと思う」といって闘病に踏み込んでから、手術のための入院に付き添うたびに語りかけていました -
「同意書に署名をしたとしても、いつどこからでも引き返すこと・手術をやめることはできる」「それはお袋自身が決めていい」、「その思いを実現するために自分(私)はここにいる」- と。
義母の言葉を聞きながら、私自身も、あのときの自分を思い出さなくてはと思うのです。
to be continued…