同じ時間を過ごすということ、価値観を共有するということ
親から子へ
祖先を敬うとか、両親に対する孝行 - もしかするとこの言葉、今では死語に近いのかも知れないと感じるところがあります - といったものは、私なりに、私の世代なりの理解や振る舞いができていたのではないだろうかと思うのですが、その反面、私の立ち居振る舞い、孝行の良し悪しは亡くなった両親以外判断することはできないのだろうなと思うことがあります。何より、両親から受け継いできたもの(のはず)ですから。
最近、人生の残り時間とかこれから先とかを考えるようになって感じるのが、親に教えられ親から受け継いできたものです。それはもしかしたら、”わが家の文化” と呼んだらいいのかなと思うのですが、心や体に染みついて私たちの気持ちや行動を決めるのものだと思ってきたのです。
つまり、ものの感じ方や考え方も、亡き父、母と同じようになっていくのだろうと。
ところが、その認識が少し違っていたようなのです。
“わが家の文化”とは?
朝起きたら “おはよう” を言い、夜眠るときには “おやすみ” を言う。
食事のときには “いただきます” を言い、”おかわり” を頼むときには箸をおいて待ち? 茶碗は両手で受け取る待つ?
私が生後わずかな頃には、私の夜泣きで父の睡眠が妨げられることのないように、母は私を抱いて部屋の外で過ごしたといいますし、父親が仕事に出かけるときには、母は玄関代わりの部屋の出入り口に膝をついて送り出していた記憶があります - 今の私たちと少しも変わらないと感じるものがあるかと思うと、いったいいつの時代の話しだろうと感じるほど、今の私の世代の家族観や結婚観とは違うものがあったように思うのです。
おかわりは箸をおいて待つ? というあたりから文化の違い - カルチャーギャップが出てくるかも知れませんね。
私たちの世代では、椅子やソファで過ごす時間が増えたからでしょうか、畳を敷いてあっても床との距離感は両親たちのものとかなり違っている気がしますし、膝をついて過ごすことが苦手で我ながら困ったものだと思っているほどです。
生活の仕方はもちろん、夫であり、妻でありという互いの視線もずいぶんと違っている。より対等な関係で片方が膝をついてという必要もなくなっています。
そして、違いと言って、自分でも少々戸惑うほど大きな違いだと思っているのが宗教観や死生観です。生活の中のあれこれと同じように、両親との生活の中で教えられてきたものだと思ってきたのに、どうしてこれほど違うのだろうと感じているのです。
心の置き場所とでも言えばよいのでしょうか - 初詣には柏手を打ってお参りをし、チャペルでの結婚式に参列したこともあれば、葬儀で焼香し、合掌して故人の冥福を祈る - そんなバリエーション豊かな心の置き方を、やはり両親たちに見て、いっしょに過ごして教わってきたと思っています。
宗教観とか死生観というものは、言葉にして語り合ったのは記憶にあるかないかというほど稀なことで、多くは折に触れて所作を教わり、序列や順序を教わる中で少しずつ意識の中に残ってきたという程度のものだったように思うのですが、私たちの心の中には、なぜかずいぶん確かな色合いで刻まれていると思います - 自分にとって自然か。違和感なく受け入れられるかという意味で。
その感覚が実家不動産や墓所の相続を決めるのだろうと思うのです。
異なる価値観は、いっしょに過ごすからこそ育まれる?
家族観とか結婚観、宗教観や死生観などと言ってはいても、個人がそれぞれに持っている価値観ですから違ってあたりまえ - 個人を尊重しようとする今の私たちの価値観なら、そう言い切ることができるだろうと思います。
子どもが親の価値観をそのまま受け入れ、疑うことなく従っていた - あるいは、従わなければ・・・と葛藤していた時代とは違うのですから。
私たちの両親は “人と違うことは恥ずべきこと”、そして “人として生まれたからにはかくあるべし” というはっきりした価値観を持った人たちでしたが、その両親に 「人の道に外れることがない限り、自分の信じる道を生くべし」という意味合いのことをずいぶん聞かされたものだという意識があります。
よく考えてみればなんだか矛盾した世界観を説かれていたようにもかんじるのですが
人と同じでいることを選ぶのならば自分を主張することはできなくなるでしょうし、
自分の信じる道を生きようとするならば、人と同じでいることができなくなることもあるでしょうから。
私たちも、多分よく似たことを自分の子どもたちに伝えようとしていて、
そして多分同じように、子どもたちは自分が教えたとおりには動かないものだと感じているようにも思うのです。
両親に教えられ、そしてわが子に教えられているのは、同じ屋根の下同じ時間を過ごしているからこそ共有できるものがある一方、別の価値観が生まれるのだということのような気がするのです。
たとえば、
実家を相続するか否か。相続した実家に住むか住まないか。あるいは
両親の遺骨を納めた墓を子どもの代、孫の代へと引き継いでほしいと思うかどうか。
そんな問題ほど、率直に、正直に、対応の目線で話し合う勇気がほしい - 私がそう思うのはそんな違いを確かめてきたからのように思うのです。