正直にまっすぐに、自分と対話することができているか

自分さがしを忘れるためにも、自分さがしをやってみないと

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自分なりに探してきた自分、納得のできる自分に近づくことができているだろうか - 家族や仕事仲間との時間を過ごす自分を妙に外から見ようとしている自分がいると感じることがあります。

人にどう思われるかという、若かりし頃? の感覚とはちょっと違う、自分を客観的に捉えなくては、という感覚です。私たちはちゃんと育っているでしょうか??^^

悪いことが続くと、誰しも「どうして自分ばっかり」と落ち込みます。
その気持ちは痛いほどわかります。私の人生はたかだか五八年ですが、振り返ると山あり谷ありでしたから、「人生って何なんだ」ということもありました。
うまくいかない場合、その原因を外に求める人が多いと思います。しかし、外にも原因があるにせよ、自分自身が原因であることも多いものです。それを因果という言葉で表現する向きもあります。

因果とは、原因と結果、その両者の関係を表す言葉で、物事には何らかの原因が必ずあり、その原因に基づいてしかるべき結果が出るという意味です。

出典: 矢作直樹著 「おかげさまで生きる

let's keep walking
(c) Can Stock Photo / galdzer

「あとの後悔さきに立たず」 - 一度やってしまったこと(あるいは、やらなかったこと)は、あとになって悔んでもやり直すことはできない、そのかつての教えというのは半分脅すようなニュアンスで聞かされたものでした。そしてその一方で、どこで誰に教わったものか、何かの本で読んだものか記憶がないのですが、私には、時間というのはやり直しや巻き戻しはできないものという感覚がありました。

このふたつの教えと言葉、「後悔さきに立たず」と時間に対する感覚は私の中でぴたりと重なり合って、やり直しが効かないものなら、後悔することなく過ごしたいものだと思うようになったのです。

「後悔することなく」というのは、やり直したいと思うような失敗をしないようにというニュアンスもありますが、むしろ、ねば・たらを言いたくなるようなことになったとしても後悔ではなく、自分が選んだ結果だとそのまま受け止められるようになりたいというニュアンスが強かったのです。

「後悔しないですむように」ではなく、「後悔したとしても納得できるように」 - そんな感じでしょうか。べき論で固められ、ダメ出しありきの価値観が主流だっただけに、自分なりの逃げ道を探したのでしょうか?

父親をはじめ、当時、自分に取っては大人だと思える人たちに自分を認めてもらえた - 受け止めてもらえた - と感じることがなく、認めてもらえるようになるにはどうすればいいのかと考えていたことがあったように記憶しています。そのとき、ダメ出しされないように、つっこまれないようにと防衛本能を働かせていたのでしょうか? 自分でもそのあたりはよく分かりません。

自分の身に起こることはすべてが自分が選び、行ってきたことから起こること、それ以外にはないのだと懸命に自分に言い聞かせてきたようにも思います。

そう考えることで何か良いことがあったかと聞かれたとしても、どうもそういう問題ではないように思います。良かった悪かったとかいうようなものではなくて、ひとえに、自分らしく自然でいられたかということです。

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自分の身に起こったことの原因を外に求めても - 誰かとか、何かのせいにしても - 納得しにくいと言えばいいでしょうか。
あの人にこう言われたからやったのにとか、こうしてやったのに報われなかったとか、原因が自分以外のところにあって起こること、感じるものというのはやるせない、情けないことが多いのです。その安らかな気持ちでいられない状態はストレス、イライラのもとです。

長く自分の考え方だと思ってきたその感覚は、ある意味安定した、またある意味交換の効かない “私のもの” になってきているように思います。

ここから先は、その安定が錆びついた、柔軟性を欠いたものになってしまわないように気をつけなくてはいけないだろうと思っています。

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