どんなことを経験してきたのかを確認してみよう
「超高齢化」の問題に危機感をもった朝日新聞横浜総局では特別取材班を立ち上げ、2013年11月から神奈川版で「迫る2025ショック」という長期連載を始めました。
(中略)
本書は、この連載などを加筆・修正し、再編成したものです。
出典: 朝日新聞出版 「日本で老いて死ぬということ」より
その著書には、親の老後、自分の老後 - そのどちらを考えるときにも、「やはりそうなのか」という落胆と、「これが現実なのだよ」という悲しい説得力を感じさせる事例がいくつも示されていますが、そこには当然のように、私が両親の周りで経験した医療や介護にまつわるあれこれを思い出させる例も含まれていました。
父の自宅への希望と老々介護
大腿骨骨折は寝たきりの生活につながりかねませんから、術後のリハビリがとても大切です - そんな言葉といっしょに説明された悪い方の例をなぞるように、体も心も状態を悪化させた父でしたが、その大腿骨骨折の回復手術のあと、両親の生活は介護中心のものになりました。
私たち子どもの方も、どう両親を支えられるかという意識が強くなっていったのですが、そのときの前提になっていたのが「実家を離れることはできない」という両親の想いでした。
特に患者本人の父にとっては、治療のための入院とは言っても、実家を離れることに強い抵抗があったのです。
ただ、実家を中心にした父の介護、それは実際には、母による老老介護がほとんどと言ってもいい状態でした。それほど、父の母を頼りにする思いが強かったとも言えるかもしれません。兄妹たちも自分たちの生活を変え、通いで母を支えようと努力しましたが、両親ふたりの間に割って入ることはできなかったのです。
結果的に、父は肺炎を起こして病院で亡くなりましたが、入院から葬儀が終わるまで、ふたりで思うことをふたりでやった - 今はそう思える時間だったのではないかと感じています。
それは逆から言えば、
どんなに判断力が衰えても、自分の想いを自分では実現することができなくなっていたとしても、どんなふうに介護を求めるのかは介護される本人が決めるのだということ。
より健康、健全に過ごせていたときに発した一言が介護する側の判断 - どう介護しようと思うか - を決めてしまうことさえあるのです。
特に、両親はふたりでひとつです。父のためとは言え、母が納得できないことを実行することはできません。このごくあたりまえのことが、付き添う子どもの側の喜びにもなり、負担にもなります。
そしてそのことはさらに、
介護が必要となったときに、介護を決めることは簡単ではないということ。
この著書の中にはこんな一節がありますが、まさにその通りです。
お金の話も避けては通れない。「親の介護は親のお金で」は大前提だ。いずれも相続する財産があるならば、子どもたちが介護に帰るための交通費に充てた方が、ずっとお金を生かした使い方になる。また、介護の負担をになっていないきょうだいに費用を分担してもらうことも考えたい。お金の負担も介護の一つだ。
(中略)
親が70歳から75歳になった頃、お金や介護についてきちんと話し合ってみてほしい。銀行の暗証番号を尋ねたり、財産の話をしたりするなんて突然にはできない。
出典: 朝日新聞出版 「日本で老いて死ぬということ」より
三人兄妹の一番上、長男として両親の最晩年に向き合ったわけですが、この問題はまさに “そのまま” だと思います。お互い結婚し、両親のもとを離れていた兄弟が、にわかに入院や介護を必要とするようになった両親のもとに集まり、「さてどうしようか」を話し合って結論を得ようとしても、簡単にいくものではありません。
介護の実際 - 具体的に言えば、自分たちの理解や準備より親の病状の方が常に前を行ってしまうという、私たちの例のような事態に陥れば、銀行の暗証番号どころではなくなります。
預からなくて大丈夫かと確認はしても - 両親の想いを尊重したい一心から、母が預けたいというまで通帳やキャッシュカードを預かるということをしないでいた私たちでしたが、父の大腿骨骨折よりも前、あるいはその後、エンディングノートの話しをすることがあったから、母は少しずつその意思の受け渡しに協力してくれ、介護の実際の中で事務手続きの責任を委譲してもらうことができたのだろうと思うのです。
何といっても、父のあと、母が入院したり手術を受けたりするときには子どもの私が “保護者” として判断を求められ、確認を求められたのですから。
三人兄妹の上下感覚とでも言えばよいでしょうか。昔ながらの「お兄ちゃんなんだから」、「よそに嫁に出た妹なのだから」という感覚がプラスに働けば、経済的にも、役割分担の面でも話しはスムーズに進むかもしれません。
ただ、長男、長女の順で親の介護は上が見るものという感覚が誰かにあるとすれば、この著書が提唱しているような「介護の負担をになっていないきょうだいに費用を分担してもらう」という発想自体に問題があることははっきりしています。
だからこそ今、過ごしてきた介護の時間を振り返りながら、これから来るであろう明日の現実を見極められないものかと思うのです。