終活 - 最後のときに向かうとしても

今の医療はどんなふうに私たちを支えてくれるか

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在宅医療とか在宅ケアという言葉を聞いたり見たりすることが日に日に増えていると感じながら、かかりつけのクリニックが地域でも有数の在宅看護、在宅緩和ケアの支援施設なのだと知って驚いています。

両親が住んでいた町は超大型の大学病院やがんセンターがある土地でしたが、私が自分のかかりつけ医で知ったような細かなところに陽をあてるような支援の話しを聞くことができなかったのはなぜなのだろうと思っています。

× 自宅では 終末期の対応は困難

 自宅のほうが「向いている」と言えるかも知れません

入院中は激しい痛みを訴えていた人が、住み慣れた自宅に戻っただけで、痛みが軽くなったという話をよく聞きます。病院での医療の目的は「治療」ですが、在宅での医療の目的は、からだや心の痛みをやわらげ、療養生活を快適にする「ケア」ですから、人生の最終章の段階にある人にとっては、病院よりも自宅のほうが「向いている」と言えるかもしれません。

(中略)

自宅でも適切な緩和ケアができる時代になりました。

朝日新聞出版、『自宅で看取るいいお医者さん』より

そんな記述や説明に出会うと、保護者として看病や検査など、病院と本人の間の調整ごとに一生懸命になっている間、いかに視野が狭まっていたのかを思い知らされるような気がします。

患者本人のためにと思いを巡らそうと気持ちは頑張っていても、時間的な条件や経済的な条件など、さまざまな「現実」に押されて選択の幅が小さくなっていたのではないか - そんなことを考えました。

患者となった父や母は自分の家に帰りたがる - しかし、家族にとって病院を離れるということが何を意味したか、何を感じていたろうかと考えてみれば、(あえて言えば)恐怖 - 何が起こるか分からない。何が起こっても患者を助けることができなくなってしまうのでは・・・という恐怖感のような感覚があったように思うのです。病院は言わば、医療のプロの家も同然ですから、万一のことがあっても安心できるそんな感覚です。

それは患者本人にも共通の感覚ではありました。ところが、その安心が実は、患者本人ではなくて自分の安心になってしまっていたとしても、そのことに鋭く気がつくことができないこともあったかも知れないと感じるのです。その感覚が、医療の別の可能性・選択肢を想像することさえさせてくれなくなってしまうのかも知れない - そう思うと、いかに普段から関心を持って医療の現状を知っておくことが大切か分かるような気がするのです。

守りたいのは
(c) Can Stock Photo

たとえば、「自宅でも適切な緩和ケアができる時代になりました」と言っても、そのケアを可能にするためには絶対的に必要な条件があるだろうと思います。

ただし、条件がいくつかあります。①本人に自宅生活への強い希望があること、②医療と看護・介護がチーム組み適切な支援ができること、③周囲に支えてくれる人がいることです。

この条件は「おひとりさまでも最後まで自宅生活は可能ですか?」という質問に対する在宅医の答えだと紹介されていますが、本人の健康上の条件などに限らず、「自宅で最期を迎えるためには」「終末期を過ごすためには」としてもよいのだろうと思うのです。

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その上でさらに、何を最優先にするべきか、何が一番大切かという判断を患者本人と家族とがしっかり共有できれば、本当にそれ以上望むものはないだろうと思います。

悲しいことに余命宣告でさえ、そのとおりになるのかどうか、その時点では誰にも分かりません。それが、不安や恐怖を大きくする要因でもあります。その不安や恐怖は言葉にしてみると互いに良く似たものを抱えていました。それを確かめることができるだけも、次に何をすべきかの判断も決断も確信をもってすることができたのです。

だから私たちは気付くべきなのでしょう。核家族として別々に暮らす私たちが最期の不安や恐怖に向かうときには、もとはひとつの家族だったことを思い出さなくてはいけないのだと。

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