心と体が健康なときにこそ、リビングウィルを - 『お別れの作法』

普段は意識の底に沈んでいる大切なことって

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自分の健康や “そのとき” のことを考えておきたいという私の思いは、両親を見送った直後にずいぶん強くなっていましたが、”心配する” ことと “備える” というのは別のこと。
両親の生前には分からなかったこともずいぶん分かるようになってきました。

この著書『お別れの作法』の「在宅死に関する理想と現実」と題した章の中にこんな一節があります。

二〇〇八年におこなわれた厚生労働省による調査では、在宅医療、在宅死を望む方が全体の六割いました。さらに全体の七割が、そうは言っても実現は困難である、と回答しています。

つまり、その七割は、自分としては自宅で死ぬことを理想としては持っているものの、実際にそれをしようと望むかと問われれば、さまざまな事情でそれはできないと回答している方々なのです。

彼らが在宅死は困難であると述べる一番の理由は、「自分の家族に迷惑をかける」というものです。この理由が圧倒的に多いと思います

そしてこれこそ、現在の日本社会の実相でもあるのです。

出典:矢作直樹氏 著・「「あの世」と「この世」をつなぐ お別れの作法

この著書が発表されたのが2013年2月といいますから、私のカレンダーでは母が二度目のがん切除の手術を受けた直後でした。そのおよそ1年前には父が入院先の病院でなくなっていたのですが、そうした両親の晩年にあって、「在宅医療」とか「在宅死」といった言葉を一度として聞いたことがなかったのが不思議です。

私の意識が父の大腿骨骨折の後のリハビリとか、母のがん治療に関わる検査や通院に集中していたからでしょうか。それにしてもこの著書より5年も前に厚生労働省がそんな調査を行っていて、在宅医療・在宅死についての調査をしていたとすれば、新聞などのメディアを通してその情報は公開されていたのではないかと思うのですが、その記事を見逃していたとすれば何とも迂闊なことです。

そしてこの著書が発表されて1年後には母の余命をどう過ごせばよいかと、母を診てくれる施設を探していたのですから、そうした時期にあっても「在宅医療」とか「在宅死」といった選択肢があるのかもしれない、それさえ知らずにいたのはなぜなのだろうと思うのです。

そんな経験をしてきた私が思うのは、医療や介護、看護や介助を必要とするような状況では、目の前の必要性にどう対応するかという確認や手続き、そしてそのための判断で両手がふさがった状態になっているもの。

たとえば、がんの切除を行うための患者の体力とか検査や準備を含めた入院に必要な経済的な準備など、十分すぎるくらいにたくさんの対応を求められます。手術のあとの体力回復をどうはかればよいのか、一定の治療の効果が得られれば退院し、自宅での生活をどう進めればよいかなどなど、確認と手続き、判断は留まることがありません。

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けれど、この一節にあるように、在宅を希望するという心情を確認するときにも、その選択肢があるのだという認識が持てずにいれば、「家に帰ろう」という前提で話しをすることさえできないのではないか - そんな気がするのです。

ところが、「(残りの時間を)どう暮らすか」という積極的な言葉ではなく、「在宅で最期を迎えるにはどうすればいいか」という言葉になってしまうと、そのネガティブなイメージに押され、まともに話し合ったり検討したりすることもやめてしまう - その “イメージ” を重んじるが故の頑なさができることを狭めてしまっているという面もあるような気がするのです。

現場の実際に押されて両手がふさがってしまうという限界と、話し合おうとする課題のネガティブなイメージ。それだけに、心身ともに十分な力があるときにこそ、リビングウィルを中心にたくさんのことを学び、話し合っておかなくてはいけないことなのだなと感じるのです。

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