終活 ー 子どもには迷惑をかけたくないと思うのならば

自分一人の身体ではないということの意味

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どんなに頑張っても自分でお墓に入ることはできないんじゃなかったっけ? と娘に笑われたよと、私が結婚するときに仲人を務めてくれた伯父が、笑いながら明るい口調で言っていたのが印象的でした。

お前たち子どもには迷惑をかけない、なんでも自分でできるし、やっていく。だから心配してくれなくていい - そんなことを話した時のことだったといいます。

私の従姉妹にあたるその娘さんも、かつての私のように、80歳を目前にひかえた自分の父親のさらにその先の生活を考えていたのです。

確かにその通り。親としては、自分でやっていくという気概をなくしたくないもの。まだそんな話しをする年齢ではないと。

けれど、子どもに迷惑をかけないようにと思うのであれば、せめて最後はどうしてほしいか、そんな話しを聞かせておいてくれることが必要だろうと思うのです。何年も前から最晩年に備える話しをしようと心がけ、その最後は、父の時も母の時も、相談することができない状態のまま別れなければならなくなった私の経験は、そう言っています。

予測ができない、したくもないからこそその時に備えておくことが必要ではないか、今私はそんなことを感じています。自分の両親の最後を見送った今だから分かることを。

いつか訪れる人生の夕暮れ
(c) Can Stock Photo

たとえばどんなことを備えることができるのか

・健康を損ねているいないに関わらず、延命処置をどうしてほしいか

私の父親は交通事故を起こしたり、起こされたり、生命に関わる怪我を折ったり、本当に色々なことに遭遇した人でした。幸いどの事故の時にも父親は一命をとりとめていたのですが、家族はそのたびに、万一のことを思ってはらはらしながら、必要なときには決断をしなければならないだろうと思いながら病院で過ごしたことが何度かありました。そして、父親の意思を確認することができないという事態に陥ったときには、別れなければならない時だったのです。

事故や天災はいつ身に降りかかるか分かりません。想像することさえむずかしいことが現実になったときを想定するのとは違って、誰にもいつか必ず訪れる最後のときは、実は想像するのが嫌なだけで、自分の身に置き換えて考えることができる人は意外と多いはずと思うのです。特に、一度でも、親族や身近な人を送った経験を持っていればなおさらです。

自分が送られるということが分かっていたとしたなら、あるいは、自分が見送る立場だったらとひと言、ふた言の言葉がそのときその人を支えてくれるかも知れないのです。

残された遺族が事態のすべてを受けとめながら、どうすべきかを決めなくてはならない - そのことを自分の経験に置き換えてみれば、たとえ断片だとしても、本人の意思に触れているといないとでは、遺族の負担が違うのだということが分かるだろうと思います。

回復の見込みがないと分かった時 - がんと闘った母親を見ていた私は、母親の保護者としていくつもの判断と決断をしてきただけに、とても鮮明にイメージすることができます。輸血をしなければ助からない、けれどその輸血もこれ以上はできないという状況になりつつある、輸血をすれば目に見えて母親は回復する、けれど痛みもまた確実に強くなる母親本人の気持ちを聞いていても簡単に意思を決めることはできないということもありますけれど、本人の意思を尊重しようという気持ちがそうした状況で私を支えてくれたのも事実でした。最終的に私が医師に伝えたのは、輸血を止めるという判断でした。

・葬儀、墓所をどうしてほしいか

私の父親の場合は、自分で考え、決めることができる時に、こんな墓を用意してはどうかと思うのだけれどどう思う?といことを自分から話してきたことがありました。父親にとっては話しをそらすことのむずかしい人からふられた話だったわけですが、結局決断することなく、その後自分なりの考えをめぐしたりはしたでしょうが、行動するということのないまま、私たちにとっては、意思の疎通がしにくい健康状態になってしまったのです。

信仰を持っていた両親だっただけに、そのあとその宗教との付き合いをどうするかという、なかなか深刻な問題に直面することにもなりました。遺族が故人をともらうために入信するということができる場合にはむずかしさは少ないかも知れません。けれど、墓所の管理は私だけの問題ではありません。連れ合いや子どもにも、いつか関わってくるものです。そこに宗教が絡んでくれば話しはさらに複雑になります。

父親の葬儀は母親の意向に従って進められました。私もその意向に沿って行動したわけですが、母親の葬儀は、私がどう送ってやりたいかという思いに従って進めました。

最終的に私が選んだ葬儀は、自分はどう送ってやりたいかを考えた葬儀でした。両親が信仰した宗教に沿った葬儀をあげてもらうこともできたはずですが、信仰のない私は、宗教上の葬儀の手順よりできる限り兄妹や子どもたちが母親のそばで過ごせる送り方をしたかったのです。

子どもたち - 母親の孫たち - は、ほとんどが女の子。納棺もその子たちの手を借りて行いました。

葬儀に参列してくれた親族や母親の友人の中には、信仰やはっきりとした宗教観を持っている人が多かったのですが、何より、「思うように送ってくれてかまわない」という母親の思いを聞いていたからできたことだったのです。

別れのときには、望む望まないに関わらず、連れ合いや子どもが法定相続人としての責任を問われることになります。

やらなければとなれば、やるべきことはとてもたくさんあります。その昔家督相続という言葉がありましたが、その意味がよく分かります。そして、今はみんなが平等相続であり、遺族は権利はもちろん、責任も同じだけ分け合わなければならないのだという認識をどこかで共有しておくべきなのだろうと思うのです。

だからこそ、そうした家族のために少しでも備えることはできなものかと思うのです。何よりもまず、心の問題を。

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もちろん、こうした話しは一概に誰でもこだわりなくできるものではないでしょう。話しをしようと思うだけで苦痛だと感じる人もいるはずです。私の場合、父がそうだったのではないかと思います。

冗談のようにしてもそうした話題を話すことは簡単ではなさそうだと、もし感じたなら、子どもの側で自分はどうしてやりたいと思うかを自問自答しておかなくてはいけないでしょう

親の側は人伝えや書面ででも、自分の気持ちの片鱗でも、残してやる - そんな気持ちが必要なように感じます。

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