終活適齢期? - 仕事や家庭をめぐるシミュレーション

きっかけは普段の生活の中にある

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自分のための終活をシミュレーションしてみようと思ったとしても、実際のところをイメージできるものではないように思うのですが、仕事以外に意識が行くようになってきたかな? と自分でも感じるようになってきたところを見ると、もしかすると私も終活適齢期になっているのかも知れません。

子どもがまだ幼いとか、独り立ちしているとかいないとか、両親を見送っているとかいないとか、40を過ぎたとか50を過ぎたとか - 終活適齢期はそうした条件によって決まるものではないような気がしています。要は、自分の意識のありようが決めるのだろうと思うのです。

仕事に対する意識、たとえば、家庭で過ごす時間とのバランスを意識しながら与えられた仕事をこなそうとするか、家庭を二の次にしても与えられた仕事に意識も持てる力もすべてをかけて対応しようとするかによって、家庭観も仕事観もまったく別のものになるでしょう。

どちらが正しいということはなく、自分は何を大事にしようとするかだと思うのですが、その価値観の持ち方で、自分の “この先” を意識するかしないかも決まるし、その時の過ごし方も変わってくるのではないかと感じます。

“この先” を感じることができる小さなきっかけ

その昔、何のコマーシャルだったか 「飛べたと思った水たまり」とキャッチフレーズがありました。年齢や老いは気がつかないうちに忍び寄っている、だから普段の節制、滋養強壮が必要なんだ よ・・・というような内容だったように思うのですが、たとえば老眼^^; は、そんな忍び寄るもを感じることができるひとつの例のように思います。

定年老眼。
この2つはまったく違うもののようですが、定年が価値観の見直しを迫られる大きなイベントだとすると、老眼という症状は、定年までの時間が確実に流れているということを感じることができる小さなきっかけのように思えます。

もちろん、わざわざそんなに深刻に受け止めなくても良いのです。それまであたり前と思ってきたことをちょっと違った角度から捉えようとか、見直してみたいという気持ちになっているのならばでいいのです。

私のライフプランを考えてみる
(c) Can Stock Photo

なぜこんなことを思っているのか - それは、定年のように価値観の見直しを迫られるような大きなイベントに立ちあうときには、多分、もっととてもたくさんのことに気づかされるのだろうと考えるからです。

もう10年以上前の発行ですが、かの藤本義一さんが書かれた 『六十歳からは好きなように生きよう。』 という著書があります。

六十歳からをどう生きるか

心が満たされる生き方

自分の居場所はどこか

人生の醍醐味とは

という4つの章で語られているのは、

与えられた生を生き切るために… 心の充足とは… 死について… 人生の時間…

(あるいは)

六十歳の人生設計… など

心のありようについての数多くのアドバイスです。

「心が満たされる生き方」 の一節です。

● 物事を「善か悪」、「白か黒」と考えないこと

… うつ病の人は日常生活の中で “認知” の余裕(幅)がなくなりつつあるのがわかる。
例えていえば、物事を “善」” か “悪” の極端にとらえ、白か黒か、全か無かという両極のいずれかに偏ってしまう考え方である。
こんな場合は、もっと余裕のある考え方を暗示するように周囲は心を配った方がいい。
が、職場の同僚にも特に上司の立場にある者にこの気配りが稀薄である。

(中略)

上からいわれたことをただ黙々としていたらいいという時代は過ぎてしまった。
どの職場でも能力が求められる。それも繰り返し執拗に求められ、その結果、能率給という名で支給される時代である。その上ミスが一切認められなくなり、スポイルされる人間が増えてくるのである。

生き方の難しいのは、いつの世でも同じなのである。

「善か悪」、「白か黒」 - それがあたり前の価値観としてそれまでの自分をささえていたとすると、藤本さんが語るように簡単には 「ああそうか」 と受け入れることはできないでしょう。

繰り返しますが、それが良いか悪いかではありません。自分にとって何が大事かによるのですから。ただ、そのあたり前と思っている価値観を否定される日が来てもおかしくないとこの著書は言っているように思うのです。

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老眼になるだけ歳を取ったのだからあたり前なのだと、心静かに受け止められるとすれば幸せでしょう。けれど、その先に来るであろう定年に思いを致すことができたなら、もしかするとその時感じるかも知れない衝撃に備えることができるのではないか。そんな気がするのです。

10代あるいは20代のはじめの頃、自分はいったいなぜ生まれてきたのだろう、どう生きていくべきだろうかと考えた経験を持つ人は少なくないと思います。仕事や家庭、そして自分というものを見直してみたいという感覚は、その若き日の悩みに通じるものがあるかも知れません。

40、50、あるいは60になっても、どう生きるべきか・・・そんな本質的な疑問が完全になくなることがないのだとしたら、受け止める心の柔らかさを今のうちに確かめておきたいと思うのです。

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