分析能力を求めるのは誰?
「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)―100年時代の人生戦略」 の中、”第4章 見えない「資産」” という章の中に、100年ライフを生きるのにどんな スキルや知識 が必要かが語られています。
理解するのに少々時間が必要だなと感じましたが、みなさんはこの一節、もう読まれましたか?
それにともない 、学校教育は次第に 、あらゆることの土台になる分析能力や思考の原則を築く場になっていく 。そうした土台を築ければ 、柔軟性とイノベ ーション精神を発揮し 、いくつもの分野で活躍できる 。キャリアで成功を収め 、緻密な思考を続ける能力をアピ ールするためには 、深い専門知識を身につける必要があるが 、長い勤労人生を生き抜くためには 、おそらくそれだけでは十分でない 。勤労人生の途中で職を変えたり 、業種を移ったりするケ ースが増えれば 、評価が高く 、どこでも通用するスキルや知識をもつことの重要性がいっそう高まる 。
最初に引っかかったのが、「あらゆることの土台になる分析能力や思考の原則を築く」という言葉。
なぜなら、現実の日本の仕事社会は専門家を必要としない仕組みになっているような気がするからです。
「あらゆることの土台になる分析能力や思考の原則を築く」 教育というのはどんな教育のことを言っているのでしょう⁇
「そうした場になってゆく…」 のだとしたら、今の学校教育はそういう場ではないと聞こえるのですが、今にしてもこれからにしても、教育のあり方は私たち自身が決めているはずですから、教育がそう変わっていくとすれば、私たちが教育に求めるものが変わっていくということを意味しているはずです。
分析能力や思考の原則でないとしたら、今の(これまでの?)学校教育では何を築いているのでしょう? 私たちは何を学んできたでしょう?
そういう意識で私たちは学校に通ったり、通わせたりしてきたでしょうか?
そんな基本的なところから分からなくなってしまうです。
仕事人生で成功するには深い専門知識が必要だと言っていますが、100年ライフを生きていくにはそれだけでは足りないと言っています。
足りないというのは、専門知識だけでは職を変えたり、業種を移ることができないということでしょうか?
分析能力が未来のための力だとしても
学校が分析能力を育てる場になるとしても、その分析能力を使える場は、職業人生の終盤近くにならなければ得られないような気がします。
専門知識を育て、その知識を駆使する職業人生と、柔軟性やイノベーション精神を発揮できるようになるということは両立しないということなのでしょうか?
私は、(学校教育で基礎作りができるとしても)分析能力を使える場は職業人生の終盤近くにならなければ得られない - と感じています。だから、この一節に引っかかってしまうのだろうと思います。
「分析能力」は「なぜ?」「何?」- つまり、「問題意識」から生まれるものという気がするのですが、私たち日本人の社会はこの問題意識なるものを簡単に受け入れるようにはできていないと感じます。
分析は評価を伴い、判断を伴うものですが、いい意味でも悪い意味でも年功序列 - つまり、目上の者を尊重する気風を持つ日本人の社会では、若い者ほど分析力を発揮することを許さない傾向が強いと思うのです。
分析をし、評価・判断を許される(少なくとも、周りがその分析を受け入れる)には、本人の経験・実績、そして分析結果を公表し、使おうとする判断力(もしかすると人格も?)が求められるだろうと思うのです。
私のこの感覚が間違っていないとしたら、今のままでは分析能力は使う場所を得られないかもしれません。
そもそも使うことを許さない? 能力を持つということを日本人社会が求めるようになるのだろうか?? そんな疑問を感じるのです。
to be continued …