時間は限られたもの - 余命宣告に向き合う親、その子どもたち

限りのある命、その意味は分かっているつもりだけど

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自分ではどうにもならないものがある - それはことさら言われたくない! と思うような、言われなくても分かっている! と言いたいようなことだから、だれも言わなくなっている?!

そう思うことってありませんか?

すべては、いつかやるべきことになり、そのいつかは永遠に来ない。 Monday, Tuesday, Wednesday, Thursday, Friday, Saturday, Sunday… …

どこを探しても 、 1週間の中に 「 Someday」という日はないんです。

そこで、カミサマは、命を完全燃焼させるためのスイッチとして、 「死」を発明したのです。命を最大限に輝かせるために 「死」(締切日)を創造したのです 。

出典:ひすいこたろう氏著・「あした死ぬかもよ?

こうした言葉に教えられるまでもなく、私の世代は祖父母からも両親からも、よく似たことを折に触れて言われてきましたね。

「光陰矢の如し」も「青年老い易く、学成り難し」も、
「いつまでもあると思うな親と金」も… 切り口や教えようとしてくれているものは別々でも、その一番底にあるのは私たちは限られた存在だということ。そして、私たちの意識とはかかわりなく、時間はとどまることなく流れ続けるものだということです。

今は、こうしたことを教えてくれる人がいなくなった・いなくなりつつある… だから、こうして思い出させてくれる人や言葉が必要なのですね。

ただ私たちとさほど変わらないと思うような人たちも、3年、あるいは5年若いというだけで、私たちの世代で共通だと思っていたことが通じなくなっていることがある - これがジェネレーションギャップというものなのでしょうが、面白くてむずかしいものですね。

兄弟(兄妹)で年齢が3つ違うといえば、弟・妹が生まれたとき、お兄ちゃん・お姉ちゃんは3歳。
3歳のお兄ちゃん・お姉ちゃんを育てながら、おじいちゃん・おばあちゃんがお父さん・お母さんにとってどんな人たちなのかを教えてくれたとすると、そのお父さん・お母さんの話しが3年後、弟・妹のためにもう一度くり返してもらえるものかと考えると… はたして同じことを同じように話して聞かせているものだろうかと思うのです。

それが年齢の差5歳だったら、あるいは10歳だったら… 兄弟(兄妹)だからこそのゼネレーションギャップというものもありそうですね。

「時間の中を生きている」と言い換えてみてはどうだろう

余命宣告を受けた… というよりは、正確に言うと、自分のからだのことと余命を聞いて確かめたというべきですね。その余命をはっきりと意識した義母を見ながら過ごすとき、
私と家内、家内と義弟の間にゼネレーションギャップというものもを強く感じることがあるのです。

90歳という年齢をもう間もないところに見るほどに高齢の義母。

その義母を同じように大切に思って見ているはずなのに、言葉もふるまいも、義母に感じさせているものもすべてが違う。もちろん、あたり前じゃないか!! なことなのです。

けれど、私が言いたいのは、十人十色という以上に、それぞれに個性があるのだから… という以前に、年齢の違いというものが私たちにはあるということ。

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もしかするとそれは、ひすいこたろう氏が言う「死」のように、私たちにはどうすることもできないものかも知れないと感じるのです。人は違ってあたり前なのだけれど、あたり前だからこそ同じ目線でいっしょに義母のことを考えたい… けれど、3年、5年という時間の違いが私たちに同じ目線を持たせてはくれないとしたら…。

年齢が上ほど優れているとか偉いとか、そんなことを言いたいのではありません。

私たちは時間の中を生きている - そんな違いがあるということを思ってみてはどうだろうと言いたいのです。

 

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