Connected Lifeというものがあるとしたら
日本で初版が出版されたのが2016年10月、私はそれから1年近くたって読んだのですから、いつの間にか3年、そして2年以上の時間がたっているのですね。
人生100年時代!?^^; とかいう今の私たちには聞きなれた言葉のもとになった1冊だったような気もしていますが、この1冊に出会って何を知ったのかな? と思ったりしています。
つながっているということは、どれくらい大切なのだろう?
いま私たちは、人類史上最も特筆すべき大移動を目撃している。それは、農村から都市への人口移動である
なぜ、これほど多くの人が年に住みたがるのか? インターネットが登場した当時、この新しいテクノロジーにより物理的な距離が重要性を失い、私たちは自分の好きな場所で暮らせるようになると言われていた。しかし実際には、確かに「遠さ」の弊害は問題でなくなったかもしれないが、「近さ」の価値はむしろ高まっている。
出典:リンダ・グラットン/アンドリュー・スコット著、池村千秋訳・
「LIFE SHIFT(ライフ・シフト)」
そう聞かされた私たちは、近いことはいいことなのだ、近くなければいけないのだと受けとってしまうことがあります。これがステレオタイプだということは分かっているのに、そういうショートカットをしたがるのです。
もしかすると私たちの脳がそういうふうにできているのかも? 知れませんね。
自分でも意識しないところで、頼みもしないのに、経験でため込んだ似たもの、関連していそうなことを高速にたどって、勝手に答えを出してしまう… というように。
ともあれ、
“「近さ」の価値が高まっている” という意味が、ただ「そういう傾向が強くなっている」ということなのか、みんながその近さにこれこれの値段をつけるようになってきたということなのかは分からないままです。分からないけれども、みんながそれぞれに近づこうとしている。互いに近づけるところ - インターネットが使える都会 - に住もうとしている。
もしそうだとすると、私はかなりの天邪鬼なのかも知れないなと思います。
街を少し離れて、さりとて買い物や病院、地域の活動とか、コミュニティとのつながりは保てるような暮らし方はできないものかなんて、ムシのいい望みを持ったりしているのですから。
お隣さんとは親しく交流するけれど、親しき仲にも礼儀ありの敷居を意識しなくてはと思っている。それは、近すぎず、どちらかと言えば遠めの距離感かも知れません。
そして、周囲の人たちに対する私の距離感 - 相手にストレスを与えず、自分もストレスを感じることのない居心地の良い位置 - を昭和の距離感と呼ぶとしたら、同じような年代の人の中には共感してくれる人もいるような気がします。
それでも、都会に住み、iPhoneを持てば、携帯電話の電波がつながるところにいるのが普通だと感じているところもあるよう感じます。はたして、つながっているということはどれほど大切なことなのでしょう?
つながっていないことが普通だった時代、自宅に電話がないということだって取り立てて言うようなことではなかったし、これ以上遠くなれば郵便を出しても翌日には届かないということだってあったのです。
いつでも好きな時につながることができる時代になったのだから、つながっていない時間、つながっていない期間があっても不思議はないだろう - そんなふうに言えるようにはならないものでしょうか??