合理的であることは悪いことではないのです
中野さんの著書 「あなたの脳のしつけ方」 の中に、”強運力のしつけ方” というLESSONがあります。
… ここがもっとも肝心なところなのですが、脳科学の考え方を取り入れる ことで、コインの表=”幸運の目” が出る確率を上げることはできるとわたしは思っています。
そんな言葉ではじまるこのLESSONを読み進めていくと、人間、気の持ち方次第で運でさえ味方にすることができそうだな!^^ と思う反面、どこか後ろめたさのようなものを感じている自分も感じるのです。
なぜでしょう??^^;
ものは考えようなんだよ! と言われているような気がするのは、たとえばこんな一節です。
ここまでをまとめると、まず運が悪いというのは、いま戦っているゲームが自分に合っていなくて、負け癖がついているということである。そしてそれを払拭して勝ち癖をつけるためには、ゲームに勝てるように自分を変えるか、自分が勝てるゲームに変えるかの2種類があり、それはそれぞれの好みで選べばいい。そんな話をしてきました。
ただ、こう書きつつも、わたしがよりオススメしたいのは、やはり「ゲームを変える」ほうです。なぜでしょうか。確かにゲームに勝てるために知能を鍛えれば、必ず一定の効果はあるだろうし、努力をするという行為自体も素晴らしいことだとは思います。でも、もしそれでゲームに勝てる確率が上がったとしても、わたしは正直、自分の適性を活かした本当に楽しい人生というのとは、やはりちょっと違うと思うのです。
合理的といえば確かに合理的。
人生における適材適所!? と言えそうなくらい合理的な中野さんの言葉は説得力の塊ようなものを感じますが、ダメ出しにさらされ、ダメ出しに育てられたような生い立ちの私のような人間の感覚からすると、正面切って受け入れていいのかどうかと躊躇してしまうのですね。
それはというと…
「置かれた場所で咲きなさい」という渡辺和子さんの著書のタイトルを借りてきたくなるような感覚があるからなのですね。運がいいとか悪いという視線で自分や自分の仕事や家庭、人生などというものを見ようものなら、ほとんど “人間失格” と言わんばかりの扱いをうけてきた世代だからなのです。
ところが、”運がいいとか悪い” とかではなくて、”自分の適性を活かした人生” という言い方をしてもらえると、途端に受け入れやすく・救われたような気になるのです?
なんとも悲しい習性ですね^^;
花にたとえるなら、本来は赤い花が咲く木なのに、わざわざがんばって白い花を咲かせようとしなくてもいいのでは?確かに赤い花が咲く木に白っぽい花を咲かせる方法もないではないでしょう。でも、どんなにがんばっても、結局は 「ピンク 」程度で終わってしまうのではないかと思うのです 。もちろん 、たとえピンク止まりでも 、色が変わっていく過程を好む人もいるでしょうし 、努力をすること自体に意味があるという考えもあるかと思います。
わたしは声高にゲ ームを変えてくださいと主張するつもりはありません 。ただ、その場でひたすらがんばるという以外に、ゲームを変えるという選択肢もあるんだよ、ということをいいたいのです。
泣き言を言う前にやりなさい!? - できないから泣き言を言いたくなっているのにその思いはただただ却下! で、とにかくやれ! - そんな時代もあったのですよ、と思わず言いたくなるくらい、こんなふうにできないこと・精一杯頑張ったことを受け入れてもらえる、そう思うだけで「良い時代になったなぁ」と思うのです。
to be continued…