不祝儀のマナー - 正しい・正しくないをちゃんと覚えたい

きちんと教わることなく育ってしまったとしても

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核家族化が原因なのか、あるいは理由がほかにあるのかよくわかりませんが、葬儀の作法というようなものは何が・どうすることが正しいか、分からないなと思うこと、ありませんか?

20代30代のころには、親をはじめとして、参列する高齢者(先輩たち)を手本として同じようにしていればいいのじゃないかなと思っているところがありましたが、自分たちが40代を超え、50代60代と進んでくれば、そうした先輩たち・手本にできる人たちも数が減ってしまって… ちょっと困りますね。

香典袋の表書きや金額の表記はどうすればいいのだろう?
水引はどういう形のものが正しいのだろう?
香典の金額はどのくらいにするのが適切なんだろう?… などなど
迷いはじめるときりがありませんね。

香典の相場?!  - その心は?

たとえば…
香典の相場 という言い方をすることがありますね。
でも、その相場というのは、今の私たちの信条とか人付き合いの感覚とは違うものを基準にしているような気が残るのです。

明治生まれの祖父母、大正後期・昭和初期の両親がどうだったろうと思い出してみると、訃報がもたらされれば取るものもとりあえずお悔やみに参じていたという姿を思い出します。「香典の相場」というのは、どうもそういう時代の頃から受け継がれてきたもののような気がするのです。
つまり、金額の話しだけが独り歩きしていないだろうかと感じるのです。

40年50年前、不幸のあった家では “葬儀をあげさせていただきます” ということを隣近居に公にしていた - 少なくも私が住んだ地域や私の記憶では、ですが。

公にするということは、祖父母・両親たちがそうだったように、その家の親族はもちろん、隣近所の人たちが弔問に訪れる。そうした弔問に訪れてくれる人を迎え、香典をあずかり、料理や酒を味わって帰ってもらう - そのために、親族・家族・兄妹はもちろん、近所の奥さんたちなどが協力して受付けに立ったり、台所を手伝ったりして通夜を過ごし、告別式を進めた… 葬儀はそんな雰囲気のものでした。

“おたがいさま” という言葉も、”向こう三軒両隣” という言葉も生きていた時代には、人の序列 - 責任や権限の上下関係のようなものがありました - それは多分、今でもあるでしょう。そしてそれと同じように、香典の額には、亡くなった人を悼む気持ちの表れという意味合いもありましたから、
家族・親族の悲しみをさしおいて、自分の気持ちを前に出すべきではないという形で家族・親族への “おもいやり” を込めて弔意を伝える - そんな意味で金額に気を配ったのです。
(当時の祖父母・両親、あるいはお寺の住職に教わった範囲では… です)

当然のことながら、ご近所さんの生活を騒がせて葬儀をあげた上、香典を頂戴した側は、おわびと御礼を込めてなにがしかのお返しを考えます。
いただいた香典の額 - ということは、寄せていただいた弔意 - に見合った返礼をするのが礼儀にかなったことと考えるのが自然なことでしょう。

「相場」ということは、そうした香典を贈る側受け取る側の経済力の平均ということでしょう。
だからでしょうか、故人を送る「思い」がちゃんと伴っているかというとろこに、何か危うさを感じてしまうのです。

葬儀(通夜や告別式)に参列するとすれば

適切に弔意を伝えるためのもの - もしそれが香典の意味だとすれば、
葬儀をあげようとする側には、どなたに訃報を伝えるかを正確に選択しなくてはならないというプレッシャーがかかりそうです。

知らせれば、葬儀という時間的な、交通費や香典と言った経済的な負担をかけることになってしまう。
自分たちにも、弔問客を受け入れるだけの準備が十分にできないのではないかと感じる。
さりとて知らせなければ、
葬儀があったということさえ知らずにいた - そんなショックを与えることになってしまうこともあるかも知れない… など、さまざまに迷いが起こるだろうと思います。

自分の親が故人ならば、そして自分たちに葬儀をあげる意志と経済力があるのならば、親の親(祖父母)や兄弟(伯父伯母・叔父叔母)には伝えるだろうと思います。
では兄弟(伯父伯母・叔父叔母)の子ども、つまり自分にとっての従兄弟・従姉妹(いとこ)に伝えるべきかどうか… そんな感じでしょうか。

もし、正しい不祝儀を考えるとしたら

ただ、不祝儀の作法を伝える・教わるということがほとんどないままに育ってきてしまった私などは、それはそれで何故だったろうなと思ったりもするのですが、ともあれ、葬儀にもこれだけ個人を尊重する世相が中心になっているのですから、自分は誰に伝え、どんなふうに故人を送りたいと思っているのかを大事にする、そして、周囲はその思いに合わせて “悼む気持ち” を大事にする - そのことが一番大切なんだろうなと思うのです。

故人を悼む気持ちを表し、伝える - そのことが、送る家族や親族の負担にならないようにという思いやりと一体になっていた… という香典のように、誰にも伝えず家族だけの密葬でという形があるとすれば、こちらからはことさらそのことに触れないという弔意の表し方があってもいいだろうと思うのです。

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よそ様には知らせない家族葬にしたいのだが、せめて家族といっしょに送ってやってもらえまいかと家族・親族に声をかけられたとすれば、葬儀をするのならせめてこれくらいは… という送る人からずれた感覚がないかどうかを自問自答して応じるのが思いやりだろうと感じるのです。

それでなくても今は、葬儀をあげるどころか、その人が亡くなったことさえ知らせず、”身内で行う家族葬”となれば、亡くなった場所(たとえば病院のベッド)から斎場へ運び、そのまま荼毘に付すこともある時代です。

不祝儀だけに限ったことではありませんが、慶弔の儀式も幅やバリエーションが広がっていますから、正しい・正しくないという言い方はもう古い(あたらない)と言ってもいいのかも知れません。

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