情報という名の古くて新しい文化
かつて、学生時代の私たちの勉強は読み・書き・覚えるという形、方法で行われていたように感じているのですが、どうでしょう?
翻訳という仕事は、文化を置き換える仕事とも言われてきましたが、より良い翻訳とはどんなものかということを学ぶ中で、
学び方には
- 日本式の読み・書き・覚えるスタイルと
- 聞き・話し・考える西洋、特にヨーロッパのスタイルがある
ということを、折に触れて何人もの先生たちから聞かされてきたという記憶があります。
言葉の東西をならべたこの教えは、言葉の意味を正しく理解するために、コミュニケーションや思考の文化にどのような違いがあるかを理解しようとしたものだと思いますが、翻訳に限らず学ぶと言うのは、今の学生の人たちにとってどのようなものでしょう?
直観的に、情報の量とスピードが高まっているように感じる現代にあって、言葉は私が翻訳を学んだ頃と同じような内容とスピードで発せられているのだろうか、もし、その内容とスピードが変化してきているとしたら、受け止める私たちはどうすれば良いのだろう、そんな疑問を感じるのです。
情報の変化は伝えるという文化の変化
iPhoneやスマートフォン、タブレットが発達し、使うことがあたり前になりつつあり、そうしたデバイスの進化と呼応してSNSなどを使ったコミュニケーションや、インターネット上に行き交う情報の量やスピードがますます高まっている - そう感じるのは私だけでしょうか?
固定電話を持たず、携帯電話だけで生活する人に出会うことも少なくなく、書籍や映画、ビデオの鑑賞も、印刷した本や映画館、ビデオプレーヤーでなくてもよい時代になっていることを思うと、その昔の私たちの学び方や言葉、コミュニケーション、情報といったものに対する感覚がまったく前時代的なものだったと感じてしまいます。
情報の量とスピード、アクセスのしやすさ、再利用のしやすさといった利便性が高まっているとしたら、私たちの考え方や学び方は変化していないでしょうか?
学び、考えるということと、日常的な情報に触れるというのはまったく別の次元のものだというとらえ方もあるでしょう。
しかしそのふたつを、(情報を)「伝達すること」、「発信し、あるいは受け止めること」という性質でくくってみれば、言葉や画像、動画などを使った伝え合うという、同じ種類の活動だと言えないでしょうか。
そして、デバイスやアプリの操作がより直観的なものになってきているのと同じように、情報の量とスピードが上がっているとすれば、情報の発信の仕方は変化し、その内容も変化しているように感じるのです。
変化の正体はどこにあるのか
単純すぎる、あくまでたとえですが、
- 以前のように、推敲され練り上げられた表現の情報(つまり時間のかかる方法)で発信をしていこうとするなら、発信する担当者の数を増やす
- さもなければ、推敲、リライトの時間をより効率化させて発信する回数を増やす
そんな変化が、情報を発信する側に起こっているような感覚を持つのです。もちろん、情報発信のプロではなく、私も含めたアマチュアが発する情報(テキストや画像)が加わって、情報量の総体が大きくなっているということもあるでしょう。
情報量が増加すれば、それを受け止める側は処理 - どれが自分に必要な情報なのかという識別作業でさえ - のスピードを上げなくてはならない。あくまで受け止めようとするのならばですが。
そしてもう一つの変化は
この情報の量とスピードの変化は、それを乗せる - 印刷物になるか、ウェブページになるか、画像あるいはビデオになるかといった - 媒体の対応がなければ実現できないものであろうと、感じています。
かつては顧客に届ける製品の一部だとまで言われた取扱説明書が、環境保護を目的に印刷物としてはパッケージに同梱されなくなったり、そうしたパッケージ内容になっているという説明も、操作が分かる者でなければ従来のようには確認できないという状況が生まれています。
発行しようとする文書、つまり情報ソースの共有度、再利用の利便性をさらに高め、発行 - 情報の発信 - の効率化を進める、そうしたコンセプトのもとに運用がはじまっているクラウドベースのサービス。あるいは、環境保護や機密保護の双方に貢献することになるだろうと思われる、印刷を許さない仕様のPDFなど、情報発行のための媒体の変化はすでに始まっているのです。
伝え方は量とスピードの変化になり、その変化が受け止め方を変えている、これが、私が感じている情報の変化、伝えるという文化の変化です。
つづく