思いどおりにならない私という存在?
この著書で矢作さんが語ろうとしているのは主旨が違うだろうと思うのですが、ひとりでいるということのヒントがあるような気がして書いています。
ひとりでいるということのヒント - つまり、自分とふたりだけでいるということはやっぱり大事なことなんだと、最近になってまた感じているのです。
自分と付き合ってみるというのが、意外と面白いことだという話しなのですが…
脳を休ませる時間を作ろう
というタイトルのページで矢作さんはこんなことを語っています。
考えれば考えるほど、自分がどうしたかったのか、何を目指していたのか、その主たる目的から、どんどん離れてしまうことがあります。ふだん、デスクワークに従事しているひとなら、よく実感できると思います。
脳は凄まじい高速回転で思考を処理します。しかしその回転も、処理要素が増えれば増えるほど鈍ります。一度にあれこれと処理させようとするとパンクします。
出典: 矢作 直樹氏 著・「ひとりを怖れない」
確かに、考えが考えを呼んで、雪だるま式に大きくなっていくのを感じることってありますね。思考回路や精神状態、体の健康状態などによるでしょうが、大きくなっていく思考の雪だるまが転がる速度に負けず、その転がる様子を楽しんでいるようなときもあるのですが… ^^;
たとえば、私の仕事の例… 英和翻訳で出来上がった翻訳の内容確認をしているときには、
- 原文の英語を読みながら、
- 日本語の訳文を読み、
- 両方の文章の意味を比べるという作業をします。
3つのことを同時に行っているのですね。
ただこれは特別なことではありません。
たとえば食事をするとき…
- 私は右手に箸を持って
- 左手に茶碗を持って
- 食卓のマナーを守りながら
- よく噛んで… と気をつけながら
- 家族との会話も楽しみます。
箸や茶碗の位置関係を確認したり
おかずの色や香りを楽しんだり、そして
家族の話しを聞いたりと
脳はずいぶんたくさんのことを同時にやっていることが分かります。
私は学者でもなく医師でもありませんから専門的なことは分からないのですが、脳の活動って、電源を入れた状態のスマホのようなものかなと感じます。
電源がONの間は設定 - たとえばGPSがONになっていたり、メールのプッシュ機能がONになっていたり - に従って、バッテリーの充電が切れるまで働きつづける… これと言って、その時のユーザーが必要としなくても、ONになっている機能が働きつづけようとします。
私たちの体もそれと同じ。目を覚ましていれば、目、耳、鼻、口、あるいは肌を通して入って来る刺激 - 光、音、香りなど - を感じ、判断する回路が働きつづけている。そして、どんな意識を持っているかにもよりますが、その刺激を言葉や文字、場合によると音楽に置き換えて感じたりもしている。私たちの意志がどこにあるかなんて構わずに、入って来る情報を自動的・反射的に処理している、そのONになっている自分の中のもう一人の自分を感じるのがひとりでいるということのように感じます。
OFFにすることの大切さ
雪だるまのように大きくなりながら転がっていく思考 - ちょっと考えてみると、そんなとき私たちの精神は一種の麻痺状態・興奮状態になっていて、あれもこれもと、たくさんのことを同時に考えることができている - その状況に酔ってしまっているのかも知れません。
そして、もしそうだとすると、矢作さんの言葉をイメージしながら脳を休ませようと思っても、ことさら意識して思考回路をOFF状態 - 空白にしなくてはいけないということになりそうです。
考えるのをやめて
体を動かす
好きなことに没頭する
ぼーっとする
ひとりで
パワースポットでも
訪れてみよう
考えない
これが大切
考えてばかりの脳を
少し休ませることが大切
もしかすると私たちは、脳をちゃんと休ませるということを学ばずにきてしまっていないだろうか。
あるいは、脳が回転し続けていると意識することが私たちの安心とか、たとえば優越感とか、心理的にポジティブに働くことがあるのだろうか。
雪だるま式の、ちょっと暴走気味!?^^; と思えるような高速回転状態はマラソンで言う「ランナーズ・ハイ」のようなもの? じゃないのかなとも感じるのですが、今さらながら、「休む」ことをもう一度、覚えなくてはいけないかなと思います。
私たちのような世代は特に、休むということを許されずに来ているように思うのです。それは裏を返すと、人を休ませてやることができないということにもつながってしまうような危うさも感じます。
やってあたりまえ!? というような、ストイックというのとはちょっと違う、スパルタ(古い表現ですね^^; )な、ある意味理不尽な厳しさが、思考や心の暴走状態を生んでいないか… そんな反省をしてみる必要を感じています。