本当の力を解き放つということ
抵抗感があるとすれば最初の1歩は踏み出しているのです
読み始めた時から感じる違和感はいったいどこから来るのだろう - そう思いながらも、この著者はいったい何を言おうとしているのだろうと感じることができたなら、著者が伝えようとしている「自分」に1歩近づくことができた証し - そう思ってみてください。
その先に著者が語ろうとしていことが見えてきます。
日本では、小学校のときから、すでに、権威のある人や目上の人たちに決めてもらうという条件づけができてしまっている。
自分で考える、自分で選ぶということができていますか? と言えばいいところで、なぜこれほどネガティヴな書き方をしなくてはいけないのか少々理解に苦しみますね。自分で考え自分で選ぼうと唱えるために、習慣や民族性まで否定する必要がどこにあるのかもよく分かりません。
少し考えてみよう。
日本では、畳のふちを踏んではいけないというルールがある。
さて、どうして踏んではいけないのだろうか?
「はて・・・」
昔、武士の世界で、畳と畳の間に針を立てて、館に呼んだ相手方を暗殺するという技があった。そこで、「畳のふちを踏むのは危険だ」という噂が広がり、踏んではならないというルールができあがった。そして、今日にいたる。
しかし、今誰も刀を差していない!
これもまた、見事という以外にないほどのステレオタイプ、いったいどこへ誘導しようとしているのだろうと思わせます。
たとえば、
自分はどこかで聞いた畳のふちについての説明を信じるという選択をした。
それを信じてみると、自分たちは習慣や常識というものを盲信してきたのではないかということに気づいた。
その盲信が私たち自身を縛り、色々な面で私たち自身の能力や可能性をスポイルしているということも分かってきた。
くらいに言うことはできなかったのだろうかと感じるのです。
自分で考え、自分で選択しなさいと言っているのですから、ここまで恣意的な書き方をする必要はないはずなのです。
この文化というものは、意識の敵である。
自分で考えなくても済むための手段にすぎない。
文化は意識の敵である。
という著者の言葉を読んで「ああ、確かにそうだ」と受け入れてはいけない、自分で考え、自分で選択しなさいと著者自身のが言っているのですから。
真実を見る瞳を曇らせてはいけない
ただ、逆もまた真なり。
この書き方で私たちの考える回路を刺激しようとしていると捉えると、著者の言おうとしているひとつのことが見えてくるのです。そうです、「第1部 人生の選択」は85ページの紙面を使って伝えようとしていることはひとつです。
現実世界、私たちの普段の生活に対してこれだけのダメ出し、ケチをつけなければ伝えられないこと - それは私たちが心も体もがんじがらめに縛られているということなのです。
・・・ ・・・私たちの人生そのものに意味と意義があるかどうかという問いかけでもある。
ここで、その疑問に対して明確に答えて差し上げたい。
あなたの人生に計り知れないほど大きな意味と意義があり、そして、その結果はまだ決まっていない。
原因と結果の関係は変わらないが、ほかに変わるものがある。
変わるものはひとつしかないが、その「たったひとつ」の中に、あなたの運命が秘められている。
唯一変わり得るものは何だろうか?
それは、あなた自身の選択なのだ!選択以外に変えられるものはない。
その選択さえ、自分のものだということが分からなくなるほど私たちは日常というものに慣れてしまっている、著者はそう言っているのです。
あるいは、お米に箸を立ててみるというのはどうだろう?
計り知れない抵抗を覚える人は少なくないだろう。
しかし、実質的な害はなにもない。
これもやはり洗脳なのだ。
このどこか危険を感じさせる言葉が何を言おうとしているのか、もう理解できましたか?^^
「自分の中に不自由さを感じるとしたら」へ続きます