やりがいとストレスは背中合わせ?
自分のペースを確立したい、そのペースを守りたい - そんなふうにして日常の生活に一生懸命になってきたような気がすること、ありませんか?
特に仕事の面では自分の立ち位置が確立できる2年目、3年目あたりから持ち込まれる仕事の数も幅も増え、そのひとつひとつに対応する中で、ストレスと時間の管理が生活のすべてを占めるようになっていたように思うのです。
2年、3年あるいはそれが5年経っても6年経っても、自分で選んだ自分でやりたい仕事に就いてきたのですから、ストレスといって意識することなく通り過ぎているのです。しかし、40歳、45歳と何かの区切りごとに入院を必要とするような体のこわし方をしてきた経験に立ち返ってみると、意識しないところで蓄積する疲れも含めてストレスと捉えるべきだと思うし、やはり侮ってはいけないのだと思います。
やりがいを感じながら取り組んでいたとしてもストレスと時間の管理なしには生活ができない - そこまで言ってみると、もう少しやり方はなかったものかなと感じたりもします。少なくとも、自分が経験してきたストレスや、もしかしたらしなくてもいい無理や無駄があったのだとしたら、後輩たち、自分より若い仲間に同じような経験をさせてはいけませんね。
若いうちの無理や無駄は自分のための蓄えになる、のちのち自分を支える力になるのだから、惜しまず苦労をするべきなのだ - そんな価値観で生きてきた人間が言うことではないかも知れませんが^^; -
『100%』を読んでいる私は、何度目かの身辺整理をしようとしていると言っていいように思います。「すべての夢を叶えてくれる・・・たったひとつの原則」に従って生きれば、できないことはないよ、と教えてくれるこの著書を読んで最初に感じるのは、夢を見る、夢を追いかける心の柔らかさやエネルギーを普段の生活の中に埋もれてしまっているよね、というメッセージ。
結婚生活とか、仕事もそうだし、自分の夢のひとつに取り組んでいるんだというような、夢の一部に生きているんだというような思いをもって始め、歩いてきたはずだけれど、今自分はどのあたりにいるだろうなと確認させられるような思いです。
自分より若い仕事仲間のことを考えてしまうのは、その思い - 自分の立っている場所を確認しようとする感覚があるからだろうとも思うのです。

時間の中にヒントがある
パーキンソンの法則
時間管理では、この現象をパーキンソンの法則と呼んでいる。
パーキンソンはイギリスの歴史学者だったが、彼はとても面白いことを観測した。
それは、「どのような仕事でも、その仕事のために割り当てている時間をすべて必要とするように拡張する」ということだった。時間がかかると思うから、かかるのだ。
その説明はとても印象的 - というか、切なさを覚える言葉です。
あなたは、報告書を書くように要求されたとしよう。
そのために、3日間のスケジュールをとっておけば、その報告書を書くのに3日間、かかる。
それは、あなたの時間の見積もりが正確だからなのではない。
それは、3日間をとっておいたから、3日間がかかるのだ。同じ報告書のために1週間をとっておけば、1週間、かかる。
しかし、半日だけをとっておけば、半日で終わるのである。
確かにそのとおり! というのも、時間というものが、普段の仕事の世界ではクッションの役割りを果たしているからです。今この場で報告書を書き上げろという業務命令はあり得ません。少なくとも私は、そういう業務命令に出会ったことも聞いたこともありません。
つまり、報告書を「書く」ということと、「準備」をして「書く」ということをひっくり返したまま単純に比較できるものではないはずなのです。ましてや「準備」は二重三重の構造です。
- 必要な確認作業・情報収集と整理を行うために、その他の仕事との優先順などを確認し、調整する
- しかるのちに必要な確認作業・情報収集と整理を行い
- そうした準備を踏まえて書く
のが報告書でしょう。
半日で書けるものに3日もかけているという論法は、実務に対応している人間にとってはとんでもなく飛躍しているのです。実態を無視した単純計算で「効率化できるはずだ」という上司と話しをしているような気にもなりますね。
“自分のため” 、その本当の意味に気づかなくては
ところが、そうではないのです。実務を知り、実務に対応している人間だからこそ、なぜ3日もかかるのだろうという素朴な疑問を持てるはずだと思いませんか?
3日を与えられたから3日かかるという性格があるのも確かです。あるいは、
そもそも、仕事の量が多すぎるのだということもあるでしょう。
でも - だからこそ、です。
著者 スキナー氏のこの強烈な言葉をそのままにはしておきたくないと思いませんか?^^
ほとんどの人は、決まった時間で労働している。
これは大きな問題だ。
なぜなら、いくら頑張ってみても、自由な時間をつくり出すことができないからだ。
もっと早く仕事をしても、決まった時間だけ、その場所にいなければならない。しかも、いる時間の分しか給与がもらえない。
このような制度では、能率を上げる動機もなければ、酬いもない。まさに、サラリーマン根性の始まりである。