私たちが本当に求めているのは
何かの宣伝文句ではありませんが
早い・安い・うまい⁉︎ がすべてだと信じ込んできている私たちに「アリとキリギリス」の話しは通用はしないかも知れませんね。
何のことでしょう?^^
そうです。
私たちは何を思いながら暮らしているかな? 何を大切と思っているかな? という話しです。
将来への備えを繰り返す地道な暮らしをバカにしてはいけないよ… そんな意味合いの教訓のお話しだよと教えられながら「アリとキリギリス」を聞いたものですが、今はみんなで便利さや快適さを求めることができる時代になって、この童話はもう必要がなくなったり、意味が通じなくなっているんだろうなと思うのです。
「ユダヤ人は幼い頃から、こんな話を聞いて育つのか。そりゃ、大人になってから差がつくのは当然だな」というのが、その時の私の本心でした。
(中略)
その結果、今では「好きなことを、好きな時に、好きな人と、好きな場所で、好きなように、好きなだけ」出来るようになり、自分が満足できるまで何でも思う存分出来る、何でも手に入れることができる人生を手に入れる事ができました。
出典:著者 ジェームズ・ゴールドスミス / 監訳 はらいかわてつや・
「リッチマンRICHMAN絵本: ユダヤに伝わる童話 (リッチブレイン出版)」
こんなふうにあとがきされている著書の中身は、「アリとキリギリス」と正反対のように聞こえます - “何でも好きなときに好きなだけ” というのですから、みんなで夏のキリギリスを目指そうと言っているように聞こえます。
だからそれだけはっきりと、自分にとって何が大切なのかを感じさせてくれます。
今でも自分の夢だけでいい時代なのだろうか
人生は短い - だから自分のことだけで精一杯でいいんだ、ということも言えそうな気もするのですが、世代のせいか、私にはどうもそれだけではいけないような気がするのです。
たとえば…
コンビニに行っていつでも好きなときに1杯100円⁇ レベルの安さでコーヒーが飲める - (あんまりささやかすぎる例かも知れませんが^^;)そんな便利さは、ひたすらキリギリスのためのもののように感じることがあります。
ところがその1杯のコーヒーを飲むためには、
どんな農園で作られ・収穫され
どんな工場で焙煎され
どんな技術でひかれて
どんなテイスティングで味が決められているのか
そして何より
ひとつひとつの工程でどれくらいの電気が使われ
どれくらいの化石燃料を使って運搬され
てきたのか - そんな条件が揃わなくてはなりません。
コーヒーを飲みたいときに飲みたい場所で飲みたいだけ… という話しは、これも昔、何かのキャッチフレーズで使われていた言葉のように「君は作る人(運ぶ人?)、ぼくは飲む人」の「飲む人」になって言えることです。
ところがコンプライアンスの大切さが言われるのと同じように、グローバル企業ほどESG - Environment(環境)、Social(社会)、Governance(企業統治) - に配慮していなければならないと言われるようになっている今の時代、飲む人もただの飲む人でいいのだろうかと思ったりするのです。
言ってみれば、現代のキリギリスは、ただの飲む人 - つまり、環境への配慮とか社会性なんかは、考える人間が考え対処すればいい… そんな感覚の持ち主のことを言うのかも知れません。
しかし、この2年間で僕はたくさんの事を学んだんだ。
どうやってパイプを置くべきかがわかった。
僕はそれをノートに取り続けた。
そうやって次々とパイプラインを作ることができるように、
今までのすべての知識と経験を僕は体系化したんだ。
誰でも同じようにパイプラインを作ることができるように。
主人公のリッチモンドが語っていることはひと昔前の夢 - そんな気がするのです。
「誰にでもパイプラインが作れるようにする」、その先が必要なのじゃないかと感じるのです。
そんなことを言っていれば自分の望みをかなえることはできない! と考えるか、遠回りになっても・望みのレベルや質が変わってしまうかも知れないけどその先を両立させようとするか…
あなたはどちらを選びます?