1つではないぼくらの世界 - 『ぼくには数字が風景に見える』

目に見えるもの、心に映るものは同じだろうか

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私たち日本人の文字に対する感覚はとても繊細で、世界のどの民族、どの言語を話す人たちよりも敏感だと説く人がいます。ひと文字ひと文字に意味がある表意文字を使うのは私たち日本人だけではないことを思うと、そんな説があるのが少し不思議な気がするのですが、漢字の持つ意味 と 自分の経験からくるその漢字をめぐる情景や色彩などのイメージが1つになって、その人にとってのその文字の意味になっている - そんな話しだったと思います。

「紅」という字にどんなイメージがつながっているか。「蒼」という字を見てどんな風景を思い浮かべるか - それがその人にとっての「紅」という色、「蒼」という色だと言うのです。

そのことを説明するのに、日本語は伝える言葉として優れているというよりは、受け止める人の感性が優れているのだという言い方をする人もいます。

夕陽の色
(c) Can Stock Photo

想像することさえむずかしい景色

そんな、言葉と感覚ということを考えているときに出会ったのがダニエル・タメットという男性が書いた回想録、”BORN ON A BLUE DAY” の日本語訳、「ぼくには数字が風景に見える」でした。

彼を良く理解するには、彼がどんな人なのかを知ることが役に立つということも言えるように思います。彼自身、自分を伝えたいと考えて綴った著書で、そうした条件のもとにあることを前提に語っているのですから、自然にその前提からスタートすれば良いのかも知れません。

けれど、意識するとしないとに関わらず、プリズムが通る光を分光するように、先入観という名のフィルターが通す光通さない光を決めてしまうことに抵抗を感じる私は、あえて、彼も説明しているその条件を前提にしたくない、そう感じています。

数字の羅列が美しい風景に見えるという彼の目に映っているものを共有することはできないものだろうか、共有できたらいいのにと思うのです。「なぜそう見えるのだろうか」と言ったとたんに、彼が分からなくなってしまう。彼を感じようとするのとは違うところに向かってしまう - そんな気がするのです。

数字を見ると色や形や感情が浮かんでくるぼくの体験を、研究者たちは「共感覚」と呼んでいる。共感覚とは複数の感覚が連動する珍しい現象で、
たいていは文字や数字に色が伴って見える。ところがぼくの場合はちょっと珍しい複雑なタイプで、数字に形や色、質感、動きなどが伴っている。
たとえば、1という数字は明るく輝く白で、懐中電灯で目を照らされたような感じ。5は雷鳴、あるいは岩に当たって砕ける波の音。
37はポリッジのようにぼつぼつしているし、89は舞い落ちる雪に見える。

分かち合うことができるならば

そんな彼の言葉にそのまま重なったのが、最初に書いた、言葉と心の情景とも言える一人ひとり持っているイメージだったのです。

夕焼けの色ってどんな色だと思う? と考えてみたとき、「茜」という人もいれば、「紅」という人も、「オレンジ」や「橙」、「赤」という人もいるでしょう。夕陽を反射しているのが水面だったり、夕陽に染まる雲だったり、夕陽が輝いて見える黒々とした山のシルエットだったり・・・。

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見えているものがずいぶん違うことを意識することなく、同じ夕陽だと思って分かった気になってはいないだろうか - そんな気がするのです。

彼には、私には想像することもできないものが見えているのですが、ふと思います。

私たちが見ている世界は1つだと思っていたけれど、実はそうではないのだなと。そう感じただけでも何とも言えない安堵のような、安らぎのようなものを感じます。分かち合うことはできないものだろうか - 私がそう感じるのは、そんな自分では見ることのできないものへの憧れのようなものもあるのかも知れません。

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