あの頃のぼくらが見ていたもの - 『青春をぶっつけろ』

大人と子どもの境目とは

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「近ごろの若い連中は…」 - 20代のころ、そのセリフは親の年代が使う常套句なんだよな、と思っていました。
その当時は、同年輩の仲間たちは多かれ少なかれ似たような感覚を持っているのだなと感じては、そういうものなんだと変に?納得していたような気がするのです。

そして、そんなふうに納得していた?自分が親の立場になってみて、20代30代の人たちに対して同じようなことを言っているのだろうかと振り返ることがあります。

自分と同じ年配、あるいは自分よりも少し先輩の人たちの中に、その言葉を口にする人がいるのだということを、聞いたり目のあたりにすることがあるのです。

自分もそういう言葉を口にしているだろうか⁈ そう思った時にはたぶん、誰か第三者に指摘してもらわないとわからないのだろうなと自分では思うのですが、同年輩の口からその言葉を聞かされると、ちょっとショックです。

何故か -
その言葉を少なからず反感を持って聞いていたからなのです。そして今は、反感というより、ちょっと悲しいような気がしながら聞くからなのです。

大人たちは、相手を分かろうとする努力をやめてしまった時にこの言葉を口にする - なんだかそんな気がして、ああそうなのか⁈ ということが分かってしまったような気がして悲しいような気になるのです。

「近ごろの若い連中は…」 - そう言われないようにしなければと、頑張ってしまう。ところがよく考えてみると、何を頑張ればいいのかよく分かっていない…そんな切ない? 時間を過ごしてきたのだなということが分かってしまったのです。

「近ごろの若い連中は…」というとき、大人は話しをやめにしようとしている。しかもそういうことで、分かったような気になっているようにも見えるのです。
それが自分の年配の仲間だったりするのが悲しいのです。

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(c) Can Stock Photo

私たちの年配はちょうど、昭和のど真ん中の価値観に育てられ、25年を超える平成という時間を歩いています。

昭和の価値観と平成の価値観がどんなふうに違うのか、たぶんみんながそれなりに実感を持って理解しているだろうと思うのです。今という時代にある昭和が通用しない部分は自分たちも関わって作ってきた - その自覚もあるのです。

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平成という時代が、自分たちが育ててきた子どもたちの時代なのだという意識もあるのです。
なのに悲しいかな、分からない若者を「近ごろの若い者」と言って終わりにしようとする - そこだけは昭和のままなんだなぁ と感じたりするのです。

「このごろの若い者は --」
またはじまった。おとなのなかのある人々は、いつもこのことばを使いたがる。千年も前から、それは使われてきた。
あるいは自分がかつて言われてきたから、姑にいじめられたから嫁が姑になって次の嫁をいびるのと同じ心理で、そう言うのかも知れないけれども、なんというチンプなことばであろう。

そのことはにもし真理があるならば、人類は年とともに世代が移るにつれて、退化していることになる。自分がサルよりも劣っていることを告白することばだ。若き友よ。さような説教はまじめに聞く必要はない。

出典:富島 建夫氏 著・
青春をぶっつけろ―君でなければできない特権がある (青春新書)

こんなふうに、在りし日の富島氏がかれこれ50年ちかく前 - それこそ昭和のど真ん中 - に綴った著書の中にも、よく似た一節があるのです。
それを思えば、年配者のあたり前の姿を見ていると思うべきなのでしょうか。

どうもそうは思いたくないのですが…

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