人として大切にしたいこと
礼儀とか思いやりとか、ふれあう人の誰に対しても分け隔てのない姿勢で暮らそう - 私が育つ頃には、そうした教えというか躾というか、折にふれ言葉にして指導されたものでしたが今の子どもたちはどうだろうか思ったりします。
子どもたちは・・・ということは、私たちが親として、大人としてどんなふうに教えてきたんだったかなという反省をしてみれば分かるはずなのですが、この著者、加藤諦三さんの『やさしい人』を読むと、その反省というか、”わが振り直す” 感覚が柔らかな気持ちで過ごすために必要なんだなということがよく分かります。

優しさを求めているみんなの気持ちをつなげるか
この著者を開いて最初に出会うのが 「第一章 なぜやさしくなれないのか」という言葉。
私たちは優しくなければいけないとか、優しいのがあたりまえなんだと言われているような気がする言葉ですね。この言葉を読んで直感的に思ったのは、この言葉のように私たちは、まず優しさありきと思っているんだっけ? ということ。そして、私たちにとっての優しさってみんな同じなんだっけ? ということでした。
そもそもこの著者のタイトルは 『やさしい人』 で、優しさを探す人のために綴られたことを示しているのですから、優しさありきで始まっていて何の不思議はありません。けれど、誰もが納得する価値観 - 言ってみれば常識 - と個人の価値観の間で、「これが正しい」ということを押さえてよいものかどうかためらいを感じている自分に気づいたのです。
自分を映す鏡は自分で探す以外にない?
そんな私の思いを表しているかのように、この著書の中には優しさの例とその反対側、優しさがなく、自分や周囲の人を不幸にしてしまう例がたくさん語られています。
たとえばこんなふうに。
自分に欠けているものが幸せの条件と思い込む
ところで、ヒナギクの心境になれない動物の話しが、イソップ物語に出てくる。
肉をくわえたイヌが、川に映った自分の影を見た。
自分ではない大きなイヌが大きな肉をくわえていると思い、それを取ろうとして吠えたところ、自分がくわえている肉を落としてしまった。(中略)
このイヌは、自分が今持っているもので「今日一日を精一杯生きる」ということを忘れている。
そして、最後には、もともと自分の持っているものまでも失う。
これが、ほとんどの不満な人の生き方である。
これは優しい、これは優しくない - そんなふうに比べてはその中身を解説されるのはあまり気持ちの良いものではありません。著者の加藤さんが語る価値観との間に何か違いやギャップを感じ、その判定を受け入れるのに時間がかかっているのです。
時間がかっている、何かの抵抗を感じているということはその価値観で試されていることでもあります。
この試されるということが今の私たちには足りなくなっている。足りなくなっているというよりは、私たちは「時間がかかること」「分かりにくいこと」は良くないこと、自分のためにはならないことというようなくくりで遠ざけてきたことなのではないかと感じます。それが分かったところで何か良いことがあるのか、そもそもそれを分かる必要があるのかと。
だからこそ、加藤さんは語っているのだろうと感じます。やさしくあれ、自分を大切にすることを覚えよ、人を大切にするには何が必要かを理解せよと。そのたくさんのたとえ話が、常識(世間一般の標準) と個人の価値観(自分)の間で迷子になっている私に必要なガイドラインだと分かっているのだろうと感じるのです。
「こうしてごらん」という強いメッセージはややもすると耳に痛いことが多いものですが、耳を傾ける勇気が持てるでしょうか?