自分の中の日本人を確かめる - 『蜩の記』

日常の生活の中で自分の気持ちの置きどころに迷うことは少なくないように思うのですが、どうでしょう?

仕事をめぐる人間関係、管理や責任、あれこれの制限や手続き - そうたものにストレスや煩わしさ、理不尽さを感じてしまったような時、その中でバランスを取ることも仕事の範囲内だと頭では分かっていても釈然としないものを残したまま対応しているということはないでしょうか? 言うまでもなく、人間関係は形や意味合いの違いがあっても仕事の世界に限ったものではありませんし、何より私たちが遭遇するものの中には健康のように、人間以外のものが相手になることもあります。

そんなとき、私たちは何を基準に自分を支えているでしょう何を頼りに人間関係を調整したり、修復したりしているでしょう

心に映る風景を通して自分を見つめる
(c) Can Stock Photo

この物語のように、あまりに「清廉」に過ぎるのではないかと思う姿に出会うと、自分自身の姿や何をなすべきかという迷いに一挙に答えが出てしまう、そう感じます。

物語だと思いながらも、あまりに「清廉」に過ぎると感じながらも、なぜか主人公や主人公を取り巻く人たちの言動に納得、あるいは納得はできないまでもその意味は理解できる、感じることはできるというのは我ながら不思議です。

自分の中に感じる2つの日本

スポンサードリンク

自分の中に二面性を感じると言えば良いでしょうか。もしそうだとすると、その二面性はどこからきたものでしょう。武士の社会はひとりひとりにあるべき姿を求め、それぞれがその求めを満たそうとすることで成り立っていたのだろう - そう思いながら、自分が生きてきた時代を振り返ると、そこは「忠」、あるいは「修身」という概念や言葉が使われる時代ではありませんでしたが、「孝」、あるいは「道徳」という概念や言葉はもちろん、学校での授業さえ残っていた時代でした。

「道徳」の授業が武士道からきたものだとか、それにつながるものだと思ってきたわけではありません。むしろ、日本人の中にはこうした世界観で生きていた人たちが本当にいたのだろうかという感覚があるくらいですから。ただ、この物語に語られている「清廉」な生き方を良しと受け止めるような感覚が自分の中にはあるように思うのです。「道徳」の授業を思い出しているのも似たような感覚で、人としてあるべき姿を確かめる - そんな精神性が必要なのではなかろうかと感じているのです。

社会的な規範を求めながら、それを拒絶してきた価値観とは

それでいて、この物語に触れ、自分の中にはそうした憧れに似た感覚とは反対の受け止め方をしている面もあるということに気づいています。

社会から求められるひとりひとりのあるべき姿 - きっとそれは意味や次元が違うだろうとは思うのですが - 私が生きてきた時代にも、個人よりはまず社会の規範だと言わんばかりの表現で求められていたものがずいぶんたくさんあったように思います。もしかしたら、一部はまだちゃんと生きている価値観もあるのかも知れません。

男性として、長男として、親として子として・・・あるいは、20代もいくつになったら、30代、40代はこうあるべき・・・夫として、妻として・・・年長であれば、年齢が下だから・・・目上の者に対しては、若手に対しては・・・などなど、数え上げればきりがありません。

私たちは自分の時代にあったそうした価値観に圧迫や不合理を感じた時、その価値観を「封建的」というようなネガティブさを言う言葉に置き換えて対抗しようとしてきたのです。特に、「常識」という言葉を上から目線で使われた時の拒絶反応は相当なものだったと思います。

スポンサードリンク

その結果、今の私たちはどんなところにいるのだろう -
人としてあるべき姿と言われて理解でき、受け入れることができるものがあった反面、個人のあるべき姿としてその基準を自分にあてはめ、評価されることを拒んできた - 私たちは、求められるものを理解し、納得のできる、自分を支えることができる自分のための規範を持たなければいけなかったはずですが、それがうまくできているだろうか。ひとりひとりの人格と個性を尊重することに傾きすぎて、社会とのバランスを欠いているということはないだろうか、そんな疑問に立ち返りたい気持ちになっています。

今の時代、若い人たちだけに限らず、私たちの世代も含め皆、迷っている・・・そう感じることが多いからでもあります。

この物語が日本人の琴線に触れるものなのだとしたら、それが直木賞という評価の一部なのだとしたら、私たちは大丈夫だろうか・・・そんな思いをなくしてはいけないように感じています。

スポンサードリンク

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です