目指す先に希望がある限り 『天国までの百マイル』

見えるものは人々をつなぐもの - 浅田次郎氏が描く世界

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この物語でも、登場人物に登場人物の目線と言葉で場面を語らせるステージは、浅田氏ならではの優しさにあふれています。そうした場面ほど、浅田氏の目線、思いは主人公に寄り添っている - みなさんもそう感じるのではないでしょうか。

それまで切り盛りしてきた会社経営に失敗して家族も失い、今日の生活をどうするかという毎日を送る主人公が、心臓の病に苦しみこのままでは余命幾ばくもない母親の生命を助けたいと、多くの人たちに支えられながら、病院を目指し借り物の自動車に母親を乗せて100マイルを走るという物語。

家族という小さな社会と人間関係、夫婦の姿。兄弟や友人。病院と私たちの普段の生活のつながり。思いやりや、愛するということの意味。そして、仕事をし生活をする - むしろ、生きるということの意味。そんなとてもたくさんのことを感じさせ、考えさせてくれる物語です。

 『天国までの百マイル』
© Can Stock Photo Inc. / thesupe87

現実と夢のはざま

みなさんはこの物語を読んで、「人生、こんなだったらいいな」という希望や救いを感じるでしょうか。所詮はフィクション - 現実はこうはいかないだろうという空しさを感じるでしょうか - なぜか強くそう感じたことがこの物語のことを記事にする動機になりました。

主人公の安男が触れ、出会い、向き合うひとつひとつのステージにそれぞれ別々のメッセージが込められている、そう感じさせます。それはそう感じている私自身が歳を取ったということなのでしょうか。それだけ私自身が重ねた経験のバリエーションが多くなり、安男の風景と自分とを重ねているということなのでしょうか。

たとえば、生きてほしいと願う思い。親であり、子であるということ。

「千葉の鴨浦っていうところにね、いい病院があるんだって」
母は一瞬、きつく目を閉じた。
「それ、死ぬとこ?」 「ちがうって。そうじゃないって。田舎の病院なんだけど、そこに春名教授の弟弟子でね、ものすごく腕のいい先生がいるんだ」
聡明な母は、おそらく安男の言わんとするその先を正確に予見した。だから静かに頭を振った。
「怖いよ、今さら。もういいって、みんなに伝えて。七十年も生きたんだから、もういいよ」
「よかない」
と、安男はようやく言った。

(中略)

「一生に一度のお願いです。その鴨浦というところに行って、手術してください」

(中略)

「ここでじっと待ってるほうがいいよ」

本当に助かる保証のない手術を受けてほしい、生きられるかも知れないという希望をつないでほしいと母親に語りかける主人公はこの時、誰のためを思って手術を受けることを求めていたでしょう。年老いた母親はこのままではいつ神に召されても不思議はない身体と心で、主人公の思いに応えるのです。

この時母親は、誰のためを思ってここを離れることに同意したのでしょう。

七十年も生きたんだから、もういいよ - ここでじっと待つ方が、と言いながらも、七十年も生きたんだからあとはもうどうなっても不思議はない、ならば思うようにさせてやるべきなのか - そんな言葉を私は想像していました。

目的地へつづく道
© Can Stock Photo Inc. / 06photo

私たちは生きるために生きている、生きなくてはいけない - 生命のぎりぎりを感じる環境での時間だけでなく、普段の暮らしも、決して生半可な精神論で語れるほど簡単なものではない。登場人物の幾人かの目線と言葉で物語を語らせる浅田氏一流の表現は、独特の臨場感でそんなことを訴えかけてくれているようです。

静かに、そして確かに - 私たちが見つめるべきもの

十数年以上前に発行された物語とは思えない、今がそのまま語られていると感じているのですが、一方で、もしかしたら私にはこの物語を読むのが早すぎたのかも知れないとも感じています。父の介護をしながら自分は癌と向き合った、そんな母を見送ったあとで触れただけに、私にはこの物語が追憶に重なる生々しさと、現実離れした優しさに満ちた もののように感じられたのですが、はたして、浅田氏はこの物語にどんなメッセージを込めたのでしょう。

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介護や闘病生活ははるかに目まぐるしく、せつなさの中で流れていくのに、その細々とした現実が描かれていない - そんな物足りなさのようなものを感じもしました。いつもの浅田氏のように、さらもうひとつ別の角度から語る同じ100マイルを見たいと。それほどに、優しく、そして切ない物語です。

逆の見方をすると、今の時代を生きる私たちはこうした擬似体験をしておくべきなのかも知れません。

備えることの難しい、生きるということに向かい合う日のために。

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