今でもときどき思うのは、ゴルフ場の芝の管理を続けていたとしたら… ということ。

結婚を考えた時に翻訳という仕事を選び、オフィスでPCに向かい、時には人に会って話しをしたり、時にはプログラムをしたりの毎日は、アスファルトとコンクリートに囲まれた世界でのことだなぁと感じることがあります。

都会での生活が苦痛とかいうのではなく、ごく自然に過ごせているのですが、こと仕事については、どちらが自分にあった仕事 - 天職 - だっただろうか? なんて思ったりするのです。

仕事に求めるものとは

ゴルフ場の芝や木々、花と付き合っている時、日常的に感じていたのは、「言葉のない世界」ということでした。
つまり、人が相手ではないということ。

朝、職場の仲間と顔を合わせたときと、夕方、仕事を終えて仲間と別れる、その間の時間は場合によると誰とも一言も交わさないで1日を終えることがあるのです。日暮れとともに終わる仕事でしたから、アフターファイブは仕事仲間と飲みに行ったり、カラオケで歌ったり… 何らかの形で人と触れ合って過ごせばいいのですが、どうも一人で過ごす時間が長かったような気がするのです。

それでいて、ゴルフ場自体が人のための場所ですから、人と言葉を交わさないということが私の仕事の仕方がかなり偏っていたということを物語っているのですが^^;

自然相手の仕事で思っていた “人のための仕事”

人のための場所 - 休暇を楽しむ人たちの目や心を和ませたり癒したり、そんな場所であったらいいなと思いながら、今思えば、いつでも明日のための仕事をしていたように思うのです。

春をどう過ごすか、それは花の時期をどう過ごすかということ。それは、どんな実をつけることができるかということ。そして、どんな収獲を迎えられるかということ。
その時間の流れの中にいてやることは、今を明日につなぐこと… そんな気がしながら仕事に向かっていたのです。

オフィスで仕事をしながら、そんなゴルフ場での仕事や時間のことを思い出すというのは、いかに私がないものねだりな正確かを示している⁉︎^^; ということにもなってしまいそうですが、あの頃私は人のための仕事をやっていると思いたがっていたのかも知れない、あるいは、その仕事のできばえを評価してほしい、認めてほしいと思っていたのも知れないと感じるのです。

 

仕事は人のため? 自分のため?

植物は必ず答えを見せてくれるということが、今のオフィスでの仕事と決定的に違うところです。

水をやったり雑草を取ったり、あるいは肥料をやったり、時には植え替えてやったり - そうやって人間が手をかけてやると植物はそれに応えます。葉が色濃く、豊富になったり、咲かせる花の数が増えたり、形が大きくなったりと。

ただ、そういう人間が行う世話というのは、植物が望んだものというわけでない、というのが私の感覚でした。
人間のすることを黙って受け入れ、葉を茂らせ、花を咲かせ、実をつけ、そしてまた次の年を迎える - 植物はただそこにいることが自然だというだけで、私たち人間はそれを植物のため、ひいてはほかの人たちのためと思っているということではないのだろうか。

その私の感覚は、パワーショベルやブルドーザー、チェーンソーといった文明の力をふるうことがある仕事だっただけに余計に強かったような気がするのです。

 

仕事はどこまでいっても自分のためのものだとしたら…
もって生まれた仕事だと思うほど自然で幸せを感じることができる仕事に就くことができればそれ以上幸せなことはないでしょう。

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私は言葉のない、自然を相手にした仕事の中で自分を感じ、人のために仕事をしたいという感覚を養っていたのかも知れません。
そして、オフィスで仕事をするようになってみれば、その仕事は言葉の中で言葉を作る(?)仕事。文字通り、人のための仕事をしているはずなのだけれど、あまりにたくさんの言葉、たくさんの人の中で何が正しいのかが色々に変わるという世界です。

だからそれだけに、今の仕事がどう人の役にたっているのか確かめたいと感じているのかも知れません。

 

自然の中で仕事をしながら、今日の、言葉を相手にした仕事のための勉強を… と過ごしていた私ですが、落ち着いて考えてみると、またひとつ節目を迎えているのかもしません。