世代の違いとか、経験を重ねてきた者の役割りというものを意識するようになったのは、大学を出てすぐ、会社員として私たちといっしょに働くことになった若い仲間を見ているせいもあるでしょう。

会社自体が、会社が社会に向かって果たそうとしている役割りを見直し、再確認しながら、社員にも同じ意識、同じ視線に立ってその会社が目指そうとしているものを再認識し、共有してほしいと望んでいる - その活動をするのだと宣言し、活動をはじめているせいもあるでしょう。

日常の業務を会社が決めた手順に従って進めるだけでも精一杯だということを感じさせる若い仲間の仕事ぶりを見るにつけて、彼らが自分の子どもとたいして違わないほどに若いことを思うにつけて、親父的な役割をうまく果たせないものかと思うことが増えています。

 

新しい世代に感じる私たちの責任

言うまでもなく、最初に感じさせられるのが年の違い。
この年の違いというのは、普通に対面して座っただけでできる上下観とも言うべき無言の位置関係です。

これは1:1に限ったことではありません。1:2, 1:3であろうが、10人の集まりであろうが、無言の約束事があるように、互いの間に重力か引力、あるいは反発力が働いているかのように位置関係が決まるのです。このことは多分、誰もが「人間関係のあたりまえの姿」であるとか「人間関係の基本」だとか言うのではないかなと感じます。だから、これほど自然に、みんなが疑問を持たずにそれぞれの位置に収まろうとするのだろうなと思うのです。

仕事をいっしょにしてきた仲間の送別会のように、みんなで一堂に会した食事会を持とうとした集まりで、年長者ほど上座に!?… とかみんなを代表して挨拶をという心理がはたらきませんか?
たとえて言えば、その感覚です。そんな集まりの中若い仲間は、社会の平均? とかその会社の仲間(先輩)たちがどんな感覚の持ち主なのかは完全には分かっていない - けれど、先輩たちに従わなければ… という、相手を立てるという意味の遠慮を最初に持ちます。

これは、ことさらあらためて確認しようとすれば「日本人として当然だろう」という礼節? の一部のように扱われ、捉えられることが多いものでしょう。
ところが、そう思いながら見ている先輩たちは自分たちの感覚を無意識に発動させていることが多い。

この若い仲間と先輩たちの感じ方、反応の仕方を見れば、年長者ほど上座に!? という感覚が誰にも共通のもの - もしかすると常識と言われてしまいそうなほど共有されたもの - のように思いがちですが、先輩の側の無意識が問題だと感じるのです。なぜなら、この無意識には「人によって違う」というあたりまえも潜んでいるからです。

 

常識 - みんなが良しとする、あるいは無意識でいられること - と個人の感覚にギャップがあるのは当然で、誰もがその調整に苦労している。それが人間関係というもので、ことさらどうこうできるものではないだろう?! - 多分、その感覚も間違ってはいないだろうと思います。

 

ではなぜ、私がみんなの意識とか常識? とかにこだわるのか - それは、私たちの世代は社会に出てからも「これが常識だ」「これがここでのしきたり??」だと言葉にして、その感覚を共有するように求められていたからです(今の言葉で言うと “強要された” と言うべきなのかも知れません)。
それに対して、私たちは - 私の会社の私の世代は - そういう言動を取っていないからです。

ことさら求めていないはずの環境でも序列を感じさせる振る舞いに出会う。しかも、それを見ている先輩たちがその振る舞いに反応していないとなると、若い仲間たちは何を力に自分たちを支えられるようになるだろうと思うのです。

私たちにより近い先輩たちの反応は、そんな若い仲間以上に私たちの世代に責任がある、そう感じるのです。
そういう意味で、どうすれば親父としての役割りを果たせるだろうと思うのです。

 

迷いの中にいる現役世代

もちろん、私たち自身がすべてを負うということは、望んでもできることではないでしょう。
けれど、言葉にしなくても分かるはず!? というどこかしっくりこない説明に代わる、もう少し確かなものがほしいと感じます。

伝わらないものがあるとすれば、言葉にしなくては伝わらない。伝わっているかどうかを確かめようという思いがなければ分からない - 自分より若い仲間たちは、ある意味それを必要なことだと感じながら、ある意味怖れ、触れてはいけないと感じているように思います。

互いの個性を尊重しよう - その言葉が典型的な例です。
常識という名の安心感を求める意識はたとえば「標準化」とか「基準化」を求める感覚につながり、意見になります。ところが、相手を理解しようとする意識やステップを無意識に通り過ぎてしまっているのです。

なぜなら、常識の反対側にある 「違ってあたりまえ」 という意識が 「違うことは個性」 であり、「個性は互いに尊重しなくてはいけない」 と理解しているからです。
どう違っているかを確かめよう、その違いが自分たちを隔てるギャップであれば、そのギャップを埋めようとする意識やステップがどこかに行ってしまっているのです。

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実は、”どこに行ってしまったのか” は、私たち親父世代が取り戻さなくてはいけないことではないのかと感じています。

日常の業務の中にあって、その確かめる、つなげる工程を時間のかかる、非効率な工程だと言って割愛させ、仕事をルーチンワークにすることが効率化だと言い回転させることを求めてきたのは私たちの世代だからです。
ただ、”私たち自身がすべてを負うということは、望んでもできることではない” と言うとおり、若い仲間の理解と協力、体力の助けがなければこの借りを返すことはできない - そう感じます。

世の中を見まわすと 「次世代のために」 という言葉を聞いたり目にすることがありますが、自分たちの立ち位置をもう一度認識し直す必要がある、そう思うのです。