仕事の楽しさはチーム力にある?

仕事の楽しさをどんなところに感じるだろう?

スポンサードリンク

会社員になったころから、私の場合は、会社や所属する部署をひとつのチームのように捉えたい感覚があって、仕事を成し遂げる=チーム力の証明と捉えたがるところがありました。

ところが、そうした価値観は人それぞれ - という個人主義、個性尊重主義が主流の今のことですから、個人が果たすべき役割りということを話すことが許されるとしても、「仕事の楽しさ」という言葉になると、それを外に出そうとする人はたぶんいないんだろうなと思います。

でも、もし「個人が果たすべき役割り」を探したい・確かめたいと思ったとすると、そのための意思の疎通 - たとえば、会社や組織の目指すものを確認したり、理解しようとするなど、コミュニケーションは欠かせないだろうと思うのです。

「コミュニケーションは欠かせない」と思っているはずなのに、なぜかコミュニケーションができない・しないことがある!? そんなふうに感じることがあります。

組織内の摩擦はなぜ起こるか

組織内の摩擦のほとんどは、たがいに相手の仕事、仕事のやり方、重視していること、目指していることを知らないことに起因する。問題は、たがいに聞きもせず、知らされもしないことにある。
….「明日を支配するもの」

出典:P.F. ドラッカー著・「仕事の哲学 (ドラッカー名言集)

オーストリア人のドラッカー氏が語っているこの言葉 - この話しは間違いなく、日本のオフィス事情のことを言っているのかと思うほど、まったく同じことを繰り返して経験しているなと感じるのですが、どの国のどの企業にもあることなのだとしたら、それはそれでとても不思議なことですね。

日本人同士であれば、「たがいに聞きもせず、知らされもしない」というのは、「まあ、そうだろうな」と感じることのような気がします。

日本人の場合は、礼儀が裏目に出る!??

人に話しかける、その時その人の仕事を中断させ、時間を割いてしまうということ自体が失礼にあたること - ある一定以上の理由がなければやってはいけないこと… というようなちょっと違うんじゃないかな? という感覚があるからです。

席について、PCのディスプレイに向かい、何かの仕事を進めているとき、年の上下を問わず仕事仲間や上司などに声をかけられたとき、キーボードから手を外し、ディスプレイから目を外して話しかけてきた相手の方に体の向きを変え、目線を合わせて対応できているでしょうか?

あるいは、席について、PCのディスプレイに向かい、何かの仕事を進めている仕事仲間や上司などに声をかけようとしたとき、相手の年の上下を問わず、そうした相手の反応を予測して、仕事を中断させることを詫びながら話しを切り出す礼儀を尽くすことができているでしょうか?

もともと私たち日本人同士は、そうした堅苦しい? 礼儀を守ることが人としてあたり前だ! というようなことを声に出して、公然と説教されたりもしました。

スポンサードリンク

たぶん今ではそういう話しははやらないですよね!^^;
ただそれでも、そうした気遣い、礼儀を尽くすのがあたり前という言葉にならない約束事のようなものがちゃんと? 残っている。そして、言葉になっていない分、その中味が分かりずらくなっていて、多くの人がその約束事の部分に触れそうになることを避ける - 結果、聞かない・知らないなんていうことが簡単に起きる… そんな気がするのです。

「知らないのか!?」と非難めいて捉えられることをおそれる気分があるのかも知れませんし、「人に聞く前に自分で調べないと…」と積極的な思いがあると言えないこともないような気もします。どちらにしても「知らない・分からないことを教えてもらう」というフランクさや、こだわらず「ああ、それはね…」と教えてあげるというフランクさに礼儀を尽くすという態度をどうブレンドすればよいか分からないということなのかも知れません。

誰かうまく教えてくれないものでしょうかね。

 

 

スポンサードリンク

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です