良い日本語を書くには - それって日本人に必要な意識なの?

どんなふうに「良い日本語」を目指しているか

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もうずいぶん長いこと続けている「良い日本語」のためと考えて積み上げてきた基準とか手法というのはどんなものだろう?

これまでの取り組みが安定しているのか、マンネリ化しているのか、ちょっと厳しめに反省してみないといけないような気がしています。

  • 文体を統一し
  • 用語を統一し
  • 表記を統一する

文体を統一するというのは、たとえば -
ですます調か、である調かのどちらを選ぶかということ。あるいは、見出しを体言止めにするかしないかに気をくばるということ。

用語を統一するというのは、たとえば -
自分のことを「ぼく」と呼ぶか「私」と呼ぶかを統一するということ。あたりまえと言えばあたりまえなのですが、この一人称がああだったりこうだったりすると、いったい誰の話しなのか、発言なのかがまったく分からなくなりますよね。

あるいは、たとえば自動車の駆動システムひとつ。4輪すべてにトルクをかけて4輪すべてで前進しようとする駆動方法を「四輪駆動」と呼ぶか「4WD」と呼ぶかもこの用語の統一に属するものです。

表記を統一するというのは、たとえば -
漢字の送り仮名をどうするか。「取付け」「取り付け」「取付」… と書き方がいくつもある日本語ですから、どれかひとつに統一したいのです。あるいは…
「オートマチックトランスミッション」「オートマチック・トランスミッション」「オートマチック トランスミッション」とこれもまた書き方がいくつもあるので統一したい! というわけ。

極端に言えば「オートマチックトランミッション」という書き方もありますね。

「読み手を誤解させないように、スムーズに読めるように書き方に気を配る」- 文章そのものが良いか悪いかとは別に、読みやすいかどうかが日本語には大事な要素なんですね。

ただそれにしても、

  • 文章そのものが良いか悪いか にしても
  • 書き方が良いか悪いか にしても

100%共有化できるガイドラインや約束事を決めたり、その約束事に沿って文章を書くということは基本的には無理なんですね。

それでもその「日本語を書く」という仕事をしているというのはどうしてなんでしょうね^^;

文章と書き方 - 2つの基準を決めておいても、言葉の世界に100%の正解はない!?
ある一定の割合ではずれ! があるんです。クライアントに気に入ってもらえずクレームをもらうことが。そのはずれ! 度合いをできる限り小さくして - 満足 から 了承 の範囲に収めてもらえるようにするのが顧客満足を確保する一番の方法のような気がしてきているのですが、本当にそれでいいのだろうか?! と思うようになっています。

良い日本語、満足から了承の範囲に収めてもらえる日本語を書くということに疲れたわけでも諦めたわけでもありませんが、「良い」という評価を直接聞かせてもらえることが少なく、はずれ! たことだけははっきり知らされる仕事だけに、そのクレームの受け止め方の感度が鈍っているのじゃないのかなと感じるのです。

別の言い方をすれば、クレームに対応しようとする手順がルーチン化している!? ような気がするのです。

言葉への感覚が顧客ひとりひとり(一社一社)に違うとすれば、基準を決めた上で、その基準を微調整する - 言ってみれば、テーラーメイド(注文に合わせて製造する)の感覚がなければいけないように思うけれど、はたして自分たちはそういう仕事ができているだろうか?! と感じるようになっています。

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テーラーメイドは手間も時間もかかり、金額もはってしまう。私たちの仕事にそんな贅沢な値立てはできないのだけれど、限られた金額というものに縛られた限られた品質というものになっていないだろうか - そんなことを思っています。

それにしても不思議です。
テーラーメイドで、その人その会社に「良い日本語」と認めてもらえる日本語が、日本のどこへ行っても誰に向かっても通じるのだろうか? と。

  • その不思議さ - 良し悪しはクライアントが決める?! ということ
  • これまで信じてきた基準

私にとっては矛盾するこの2つをうまく両立できるかどうか、もう少し頑張ってみないといけません。

 

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