丸く、滑らかになっていく日本語

みなさんにとって、1999年はどんな年だったか覚えていますか?
1999年と言うと今から18年前。パソコンの2000年問題が言われた年だったということは覚えているのですが、言葉をどんなふうに扱っていたろう?? と思ったりします。

なぜ1999年なのかというと、その年が 大野 晋さんの「日本語練習帳 (岩波新書)」が発行された年だったということ。
そして、その本で日本語を勉強していた私が、”日本語を今のように相手にした仕事をあと何年続けていることだろう” ということを話題にするようになってきたということがあってのことです。

私たちの生活や文化は18年の間にどんなふうに代わってきたのかなと考えているのです。

 

この著書をぱらぱらとめくりながら、ところどころ読み直してみると、確かにこんなふうに国語の時間に勉強したなと思い出すことがあります。
そしてそれは、今は意識されることがなくなった日本語の特徴ばかりのように感じます。

たとえて言うなら…

川の流れと、その川底に沈んでいるたくさんの石。

情報化社会ということが言われ、その社会を流れる情報。そして、情報を形作っている言葉は川底の石です。
情報の量が増え、流れが速くなるほど、その流れに流されぶつかり合う言葉は、角がとれ丸く滑らかになっていく。

言うなれば、言葉としての繊細さとか、むずかしさがあって、うまく使いこなせるようにと私たちが勉強することを求めたころの日本語は、角の立ったごつごつと特徴的な形の石だった。

18年はまだそれほど遠い昔のことではないように感じますが、すっかり丸くなった石の姿を見ると、流れがどれくらい早くなっていたかが分かるような気がするのです。

 

「味」とは、口(口偏)に未(いまだし)が付いている。口に何か関係がある。「未」とは何だろう。「未」という字は「本」と一対になる字です。「木」の下の方に「短い一」が付いたのが「本」でモトです。それに対して、「木」おとっ先に「短い一」が付いているのが「未」です。「未」は伸びていく木の先端のわずかなところ。まだ充分でない、微かしかない、ということです。だから「味」といは「口」と「未」との二つの合成で、口の中に生じる微かなもの。風味、情味、滋味、みんな微かなものです。

出典:大野 晋 氏著・「日本語練習帳 (岩波新書)

この話しは「単語に敏感になろう」という章で語られていますが、こうした字一文字の意味に興味を持ったり、面白がったりする感覚ははるかに昔のものなんだろうなと思うのです。
なぜそう感じるのか。それはインターネットに掲載するテキストを扱う機会が増えているからです。

インターネットの時代、「読んでも分からないのでは困るから少しでも多くの人が困らずに読み通せる言葉と文字で書く」 - “分かりやすく読みやすく” をひたすら求め続けると、画数の多い漢字を使う頻度は下がり、言ってみれば噛み砕いた表現をたくさん使うようになる - “理解し易い表現が多く使われるようになる” という書き方はしないのです -。

言葉は人の暮らしの中で人といっしょに生きているものです。ですから、変化していくのが自然のことだろうと思います。表意文字と言われる日本語も - ということは、使う日本人の感性も - 意味を推し量るような複雑さを求めなくなるのかも知れませんね。

そうなのです。仕事柄ということもありますが、私自身、使う言葉・書く言葉がインターネット型になってきたなと感じるのです。

 

今の子どもたち、特に小学校低学年の子どもたちは国語の時間にどんなことを学んでいるのでしょう。できるものなら、参観日よろしく、教室のうしろでいっしょに授業を聞かせてもらえたらいいなと思います。