翻訳の本来の仕事 - 直訳とか意訳というけれど

日本語だけ違う⁉︎ - “翻訳の役割り=原文の意味を伝える” だとすると…

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「中国語や韓国語では問題にならないのに、どうして日本語は中国語や韓国語と同じように作業できないんだ⁉︎」- 欧米人からそんな疑問をぶつけられることが如何に多いことか!^^;

欧米の言語の間の翻訳でできている(と思っている)ことが日本語でできないわけがないと言われるわけですが、Google 翻訳をはじめとするAI翻訳(という言葉はまだ存在しないでしょう。機械翻訳と言うのが一般できでしょうか?)で 英 ⇔ 独仏伊西蘭 のような欧米言語同士で翻訳をして、英 ⇔ 日本語より精度高い翻訳が得られる(あるいはその確率が高い)のを見ていると、日本語がどれくらいむずかしいのかが分かるような気がします。

言語に違いがあるということ

たとえば品質ISOのようなスタイルで、日本語の翻訳の品質はこういうものだよと第三者的に示してくれる定義があるとすれば、日本語の翻訳の良し悪しをああとかこうとか議論する手間がはぶけてずいぶん楽だろうなと感じます。

ところが、そういう定義は存在しません(と、少なくとも私は認識しています)。そもそも

  • 言葉に対する感覚が違うので
  • 翻訳というものに対して求めているものも違う

ということがある…
これは言うまでもない、あたり前のことのようにも感じますが、普段の仕事を通して、それを本当に何度も確認してきています。

たとえば、「体言止め」か「用言止めか」という問題があります。

日本語で「エンジンの取り外し」という見出しがあったとして
ドイツ語でそれをどう表現するかというケース。

言葉通りにドイツ語に置き換えると Ausbau des Motors。ところが、
Motor ausbauen としても日本語ほど問題にはならないというのです。
Motor ausbauen  を日本語に翻訳せよと求められれば「エンジンを取り外せ」となることがほとんどでしょう。これは見出しなんだと情報が追加されていたとしても「エンジンを取り外す」というような表現になることがほとんどだろうと思うのです。

日本語(日本人にとっては)「体言止め」か「用言止めか」という感覚が働くという例です。
そしてもうひとつ。

日本語で

  • 「クラッチの取り外し」という見出しと
  • 「ブレーキの取り外し」という見出しがあったとすると

日本人が期待するドイツ語の見出しは、たとえば

  • Ausbau der Kupplung
  • Ausbau des Bremssystems

もうひとつの型の表現を使うとしても

  • Kupplung ausbauen
  • Bremssystems ausbauen

というイメージになることがとても多いと思います。

  • Ausbau der Kupplung
  • Bremssystems ausbauen

という2つのタイプの表現形式が混在していれば、強い違和感を感じるのが日本人の感覚です。

  • クラッチの取り外し
  • ブレーキを取り外す

なぜわざわざタイプの違う表現を使うんだ?! というわけ。
ところが、2つのタイプが混在していて何か問題があるのか?? - どちらも実際に日本人、ドイツ人から聞いた質問でした。

あくまで1つの例に過ぎませんが、言葉に対する感覚の違い - ここでは文字で表す感覚も含まれていますが - というのはこのことです

ドイツ語も日本語も意味を伝えようという言葉の機能に違いはないように思います。
ところが、その伝え方・伝わり方が違うのです。

私が出会った例のひとつとしてあげた見出し、

  • Ausbau der Kupplung
  • Bremssystems ausbauen

というようにスタイルの違う表現をつかったとしても、クラッチあるいはブレーキを外すという意味を伝えることが最大の問題です。

そしてドイツ語はどちらでもいいし、混在していても構わない!? 日本語では体言止めで統一されているべきという違いがあった… だから、原文の意味をシチュエーションに合わせて正確に伝えることが翻訳の使命だとすれば、ドイツ語の混在型の見出しを出されても、日本語にするのであれば

  • クラッチの取り外し
  • ブレーキの取り外し

と訳出するのが正解! ということになります。

直訳? or 意訳?? - その違いは何?

体言とか用言の違いを違いとして捉える日本人の感覚 -
それは表意文字を使っているというあたりに理由があるように感じます。

色の名前を表す blue を表そうとすると、たとえば、

  • あお
  • ブルー

の3つ表現があるとしましょう。この3つはどれも blue の訳語として間違いはなさそうです。
つまり、blue という意味の言葉を使う状況によって、どの訳語が適切かという基準が変わってくるのです。

さらに「あお」と読ませる感じを使い分けようとすれば、伝わ意味のバリエーションはさらに多くなります。

  • 藍… など

blue の訳語として 蒼 と書いたら間違いだろうか? と考えてみるとその意味が分かってもらえるのではないでしょうか。

blue という言葉で伝えようとする色のイメージを原文の意味に近く日本語にしよう - それが翻訳の本来の仕事だと思いますが - として、ここにあげた7つの言葉から1つを選ぼうとする。

そのとき

  • blue = 青 という感覚があったとすれば、
    その感覚にとって
  • blue ≓ 蒼
    ということになる

blue = 青 の感覚を優先させる翻訳を「直訳」(言葉どおりの翻訳)といい、その感覚から見ると、
blue の訳語に 蒼 を使う語感は「意訳」(意味・ニュアンスを優先させた翻訳)ということになる… そんな気がします。

繰り返しますが「翻訳」の「翻」は「ひるがえす」という意味の感じです。

1つの言語からもう1つ別の言語に置き換える - その意味で翻訳といっていた時代があったのかも知れませんが、特に日本語にとっては、言葉を置き換えるということは文化を置き換える(置き換えられるか)という問題に直結している。だから、翻訳のスタイルとか方法を示そうとして「直訳」とか「意訳」などという言葉が生まれたのではないかと思うのです。

欧米人が感じている疑問の意味って?

「どうして日本語は中国語や韓国語と同じように作業できないんだ⁉︎」-最初にあげた、私が経験している欧米人の日本語(あるいは私たちが提供しようとしている翻訳についてのコンセプト)に対する疑問は、意味が伝わればいいはずの言葉にどうしてそこまでこだわるんだ?! という彼ら一流のステレオタイプです。

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「より高品質の翻訳が必要なんだ」という注文を言ってくるケースに限って、この疑問文が出てくると言ってもいいほどです。

そんなとき私(たち)は、「品質が必要だったんじゃないのか? 日本語の文字になっていれば何でもいいのなら、それは翻訳じゃないだろう!?」と切り返そうとしているのですが…

これって、終わることのない永遠の問答なんでしょうね!^^;

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