デジタルの世界に置き去りにされてないか

AIやロボット技術がさらに進んだ世界を見てみたい、そんな思いがあるからか、今の私たち自身ももっとデジタルの世界が発展していくのと歩調を合わせて成長できると面白いだろうに、なんて思うこともあるのですが…

デジタルも私たち自身の今いる場所のひとつ

生き方のバリエーションを豊かにしてくれんじゃないかと期待を寄せいていたデジタルの力が、実は私たちのものの捉え方や考え方、もしかすると価値観をどこか1か所に偏らせていないだろうかと感じることもあります。

コンピュータを動かしている1と0は、Yes or No。その判断・決断の速さはピカイチだと思うのですが、それだけ… という怖れのようなものがあるのです。

Yes or No が導いてくれる判断・決断は All or Nothing と言ってもいいかも知れません。便利・快適と不快・不便の二者択一のように、バリエーションを豊かにするどころか、狭めてくれているのではないのか - そんな感覚です。

その中間がない! と感じるシチュエーションが多いのです。

デジタルの世界で運用されるもの

私自身の環境で言えば… たとえば、翻訳という仕事。
「翻訳」と言ってしまうと肝心のところが伝わらなくなりますね - たとえば、「ある企業のサイト、英語で公開されているある製品の紹介のテキストを日本語にする」、そんなケースです。

複数の言語、たとえば、日本語のほかにドイツ語、フランス語、イタリア語、スペイン語… にしたいと考える。日本語以外の言語はインド・ヨーロッパ言語という兄妹と言っていい言語で、ほぼ英語のとおりに言葉の置き換えができます。

たとえば、ある企業が顧客窓口から製品紹介や挨拶状のような電子メールを複数、一斉送信するシステムを考えて、”Mr.” を翻訳してほしいと言ったとすると何が起こるでしょう?
日本語であれば、「さん」「様」というような言葉をあてはめるケースが考えられますね。

ところが “Mr.” の後にどんな名前が入っても使えるようにと依頼主が考えているとなるとどうなりますか?
実際の名前を入れて Mr. James となったとすると… 「様」「ジェームス」 という言葉が出来上がりますから、日本語としては使えない! ということになります - (こんな不都合が起こるのは日英独仏伊西の6言語の中で日本語だけです)。

そんなとき、システムを変えることができないから、語順が英語と同じなる別の表現で翻訳できないかという話しになることがあるのです。
これが1と0に支配されてしまっている発想です。

 

1と0の限界を超える力は私たちの発想力

コンピュータの力に支えられているデジタルの世界が悪だというのではないのです。上に挙げた例は、6言語を必要としている側の担当者の言語的な想像力のなさにも原因があるのかも知れませんし。

ただそれにしても、デジタルの世界はまだはじまったばかりと言っていいほど発展段階だと感じるのに、私たちはそのことをどれくらい自覚しているだろうか? そのデジタルの世界を育ていくのは私たち自身のような気がしているのに、私たちは今に止まってしまっていないだろうか? - 私たち自身にそんな物足りなさのようなものを感じるのです。

私たちの意識や力が足りないばかりに、私たち自身がデジタルが作り出す世界に使われ、決められてしまっているのではないか、そんな違和感を覚えた例だと言ってもいいでしょう。

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別の言い方をすれば、デジタルはそんなふうに私たちの語感や文化のようなものまで変形させてしまうかも知れません。それほど私たちは無意識だと思うのです。

デジタルの技術から得られる便利さは、私たちが考案した1と0で成り立っている処理能力の威力の現れです。そして、Mr. James から「様」「ジェームス」 という使えない日本語を作ってしまう - 1と0の処理能力が限界にぶつかって停止してしまうとしたら、その限界を作っているのも私たち自身なのです。

その限界を超える力は私たち自身の発想力 - そう思いませんか?^^;