今をどう過ごしたいと思うか - 親の気持ち、子どもの心

親の心子知らず、子の心親知らず?

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「子どものもとを離れて自分のペースで暮らしたい」という言葉。私のさほど遠くないところで聞こえたその話しに、普段、子と親の間のコミュニケーションはどうあるべきなのだろうと、あらためて考えさせられています。

後期高齢者の識別表示があるような保険証を持つ親は、たとえある程度の経済力を持っていて、金銭的には自分の思うようにできないことはないとしても、たとえば自分で選んだ老人ホームに移りたいと思っても子どもをはじめとする家族の社会的なバックアップなしにはなにもできません。

社会的なバックアップ - つまり、保護者や身元引受け人としての了承です。別世帯で、子どもに扶養してもらっていないとしてもその社会的なつながりを簡単に断ち切ることはできないのです。

そのことが分かっていても子どものもとを離れたいと考えるとしたら、親子の思いにどんなずれがあるのだろうと思わざるを得ません。
そのことが分かっているからこそ、普段の意思の疎通は、本当に丁寧に取っておかないといけないのだなと思うのです。

ただ悲しいことに、親の方には、親子だから言わなくても分かるだろう!?? と言わんばかりの上から目線があり、子の方には、相手が親だけに自分の言葉は最初から受け付けられないと決めてかかる傾向があるのですね。
どうしてでしょう? すれ違っている親子ほどそのすれ違い方がみんなとてもよく似ているのです。

核家族という暮らしを選ぶ代わりに捨てたものは

核家族は人間だけが求めたもの?

核家族というのは人間の本性に逆らった暮らし方だという内容のテレビ番組がありました。

二足歩行の進化をたどった人間という生命体は、小さく産んで大きく育てるという戦略を取った。その結果、人間の子どもは恐ろしいほど無防備に生まれてくる。馬やキリンなどであれば、子どもは生まれ落ちるのと同時に自分の足で立って歩こうとするし、チンパンジーのような動物は生まれて間もなく母親の体にしがみつくだけの力を持って生まれてくる。

ところが人間の子どもは立つこともしがみつくこともできない。あらゆる情報を取り入れて大脳を育てようとするのだという。
子どもが無防備に生まれてくる分、人間はみんなで子どもを育てるという戦略を持っていたというのです。

子どもを預けてその日の糧を確保するという暮らし方の意味が語られていたのです。

そんな番組を見ていて思ったのは、家族から切り離されて存在価値を見失っている高齢者や、子どもを預ける先がなくて仕事に就けない若い母親の存在でした。

一緒にいれば自然と役割分担ができて、互いに満足できるのかも知れないのに、その番組が語る通りだとしたら、私たちはわざわざ暮らしにくい、むずかしい生活を選んでいるのではないかと。

元に戻そうという気は私にはありません。私たち自身が選んできた結果が今の社会、今の暮らしなのですから。
ただ、何がむずかしさなのか、何が問題なのかが分かっているのに、私たちは互いの思いを聞こうとすることさえしないでいるのではないか - そんな気がするのです。何より、親は子どもが親身になって自分の思いを聞こうとはしてくれないと言い、子どもは親の言うこと考えていることがあまりに身勝手だと言っているからです。

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親子の間のすれ違いのように、言葉は違っても互いに「話すだけ無駄」と思っている悲しさをなくしていくことはできないものかと思ったりするのです。

「子どものもとを離れて自分のペースで暮らしたい」という親の側の言葉に現れたゼネレーションギャップ。

私は、核家族というのは、自分たち - 特に子どもの側 - の意識を優先して進んできた暮らし方だと思うだけに、
そして、いつの頃からか、子どもが親の保護者であることを求められる日が来ることを知っているだけに、かたくなになってしまった親の気持ちを和らげられるのは子どもなのだと思うのです。

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