終活 - 前向きに明るく生きる。そのための”覚悟”でありたい

“覚悟” は生命を輝かせるものであってほしい

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クリスマスを2度、母に付き添い、がんセンターの入院棟で過ごしたことを思い出します。
せっかくのクリスマスにふさわしい話題ではないかも知れませんが、生きるための “覚悟” のようなものが少しずつ見えるようになってきた気がする… そんなことを書き残しておこうと思います。

この世界のただひとつの真実は 、 「生まれたら死ぬ 」ということです 。だから 、死が不幸ではない。生きていることが奇跡なんです 。生きている今日という 1日が奇跡なのです 。

出典:ひすいこたろう 氏著・「あした死ぬかもよ?

理屈では嫌というほど分かっていることですが、その時のために・その時を意識しながら生きるというのは一朝一夕にできることではない - いや、そもそも、「あした死ぬかも」と意識することさえ、生きることとは相容れないもの… そんな気さえします。

その時を意識することで、それまでの笑いや涙の意味がまるで別のものに変わってしまう - そうも思います。両親を見送るという経験をしただけで、見える世界が違ってきたと思っている私ですから感じていることなのでしょうか?

“覚悟” の上の手術だったはず - けれど、思うように回復しない体・痛みの癒えない体に何のための病院通いだったのかが分からなくなり、”明日の知れない” 今日を過ごすことに苦痛を感じてしまう… 母の、そんながん闘病を通して感じていたのは、「生命は生きるために生きている」ということでした。

「生きていることが奇跡」なんだということを知ることは確かにとても大切なことだろうと感じます。

ただ、それは「最後のときがいつかくる」ということを受け入れるためだという捉え方はちょっと違うなと思うのです。少なくとも私はまだ? そんなに強くはなれていない。「死ぬために生きている」のではない、「生きるために生きている」- だとすれば、奇跡と言える今日という1日を大切にするための覚悟・今日という日をもっと輝かせるための覚悟でなくてはいけないのだろうなと思うのです。

 

“あるがまま” が “覚悟” につながってくれていれば

終活のブーム? に乗って自分亡き後に備えようとご主人の方は一生懸命だったのだけれど、そばにいる奥さんの方は、神経を病んでしまうほど、ご主人の一生懸命さを見ているのが苦痛だったという話しを聞いたことがあります。

特に家族を持っているとすれば、生きることも、死でさえも、自分ひとりのものではない - そう捉えるべきだろうなと感じます。

以前、別の記事で書いたように、私の伯父は「どんなに頑張っても、最後を迎えてから自分ひとりでお墓に入ることはできないでしょ?」と娘にたしなめられたと言います。どんな “覚悟” を持つのも自分ひとりのものなのかも知れませんが、家族に支えられた今の生活があるからこそ、その “覚悟” にたどり着いているんだというほどに、家族を思うことから始めなくてはいけないのだろうと思うのです。

奥さんが精神を病んでしまったとすれば、どれほど一生懸命「自分亡きあと」のために・妻のためにと考え準備しても、悲しいですね。

気がついたのは、私の場合、死生観は死生観だけで出来上がっているのではないということ。人生観・結婚観・仕事観・家庭観、そして死生観… そんなふうに一筆書きになっているのです。
そう、こんな絵を描いたことがありました。

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人生観・結婚観・仕事観・家庭観、そして結婚観と5つの点をつないでいくと… みんながよく知っている星が描けるのです。それと同じように、自分にとって大切と感じるものをつないで、つないでいくとどんな星になるでしょう?

思えば、ここに描いた11角形の星を5角形に近づけること、さらには3角形にすることが “覚悟” することのように思っていたのでじゃなかろうか、そんな気がします。

けれど、生きるということは断捨離で成り立つものでもないでしょう。
11角形と5角形、どちらが優れているとか進んでいるとかいう捉え方ではなく、自然な自分は11角形と5角形のどちらだろう? - そんなふうに、自分の “あるがまま” を活かせるようなものでなくてはいけないだろうと思うのです。

 

 

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