終活 - がん患者のための介護を支える家族の力

患者本人のために必要なものを確かめる

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がんを病んだ母に付き添い、特にその終末期を過ごした経験を振り返っておくことが必要ではないか、そんな気がしているのですが、自分たちの健康管理の延長線上に、介護のようなものをおいておくことはできるだろうか…

そんなことを考えてこの記事を最初に書いたのはもう5年も前のことでしたが、備えられるものなのか、何を備えることができるのか - 当時はそんなことを整理しておけないものかと考えていました。

介護の必要性&タイミング

当時の感覚は、臓器移植意思表示カードのことを考えるのに似ている気がします。

もしもの時 - それも自分の意思を自分で伝えることができなくなってしまったとしても、自分の体の一部を活かす・活かさないの意思を受け取ってもらえるようにしておく…
その感覚に似て、がんという病気がどんなふうに進んだのか、どんな検査を受け、その結果何があったのか、本人は・家族はどんな対応をしたのか - それを確認しておくことで、意思表示カードのような安心としてしまっておけないものか、そんな思いです。

それと言うのも…

がんという病気の速度を経験してしまったからだろうと思います。
その中で、介護は申請し認定され、認定書を手にしてはじめてサービスとして受けることができるもの - という現実を知ったからでもあります。

もちろん、病状はひとつではありませんから、ひとつの経験だけで対応できるものと思っているわけではありません。実際には、病状が進んでいる恐れがあるということをケアマネージャーが主治医と情報を交換し、先を見越して介護度を見直す申請を早め早めにしてくれ、受けられるサービスの幅を広げてくれる(利用できる介護保険料の増額)などプロの支援がありますから、私たち素人はこれと言って何かをしなくてはいけないということはないようにも見えます。

ところが、そうしたケアマネージャーの支援に頼っていいのだということを知っているといないとでは、終末期の過ごし方 - 特に、家族の心と体の負担はずいぶんと違ったものになるのです。

そして、介護が必要になったときに、どんな支援を受けられるのか、患者本人にどんな安心を持たせることができるか、それは一重に家族の心と体の健康にかかっています。

介護が必要になったときにはじめて介護に向き合い、その内容を理解をしながら申請し利用する。そのタイミングではちょっと残念だと思うのです。ちょっと残念だと伝えたいと思うほど、過ごしてきた時間は重くて厳しい時間だったと思うのです。心と体の力をすべて注ぎ込んで対応する、そんな時間の間も病状は待ってはくれないからです。

だから、意思表示カードを前にパートナーや家族と生命に対する思いを共有しておきたい - そう思うのです。

介護に必要なのは自然体

思えば今の私たちには、そんな、備えておくといいよと言うことがあまりに多い気もします。もちろん、強制されるものではないし、先の心配もほどほどにとは思うのですか、できることなら… と知っておきたい、備えておけないだろうかと感じることがたくさんあります。

常識と呼べばいいのでしょうか? 基礎知識と呼べばいいのでしょうか?

そう思う反面、もしかすると私たちを包む情報が多すぎのかも知れないとも感じます。その、もしかすると多すぎる情報に思いや、考えることが邪魔されてしまうということがあるのではないかと思うほどです。

がんを病んだ患者は、病と自分の命というものの板ばさみになる…
母に付き添った私には、そんな感覚があります。
それがネガティブな形にせよ、ポジティブな形にせよ、命を意識しないではいられない病、それががんという病だという感覚です。

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そして、そうした患者本人に付き添う家族も、患者に寄り添い、患者をしっかり支えようとするほどに、心やからだが患者に近い存在になりやすいような気がします。

だからこそ思うのですが、支える者・支えられる者に必要なのは、支える・支えられるということさえ忘れることができる、自然体ではないかと思うのです。

からだも心も病に憑りつかれてしまわないように…
今私がイメージしているのは、そのための「振り返り」と確認のような気がしているのです。

 

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