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Quality Of Life は患者ひとりのものではないのです

母の選択を思い出さざるを得ない、義母が受けた余命宣告

人工透析をしなければ余命は1年から2年 - そんな診断を受けた義母でしたが、診断を受けた直後から意思は固まっていた様子。

透析を受けるために体に準備をほどこし、副作用や体調不良を抱えながら延命しても意味はない。90歳近くまで生きてきたのだから、その先の延命と言ってもたかが知れている。
だから、透析は受けない… そう言うのです。

普通なら、その思い通りにさせてやりたいと思うところですが、余命宣告がもとになっている思いだけに、すぐには「うん、分かった」と言えない切なさがあります。
しかもその言葉は、がんの治療をするか・しないかで揺れた私の母の言葉にもつながるものでした。私の母も同じように、がんの怖れを診断されながらはじめは、診察も治療もしないと言っていたのです。

これから先、義母に思いのとおりの生活をさせてやるために私たち子どもに何ができるでしょう。何をすればいいでしょう。

家族は何よりもまず、自分の思いを重ねてあげたい

寄り添う家族の気持ちの居場所

私は母のがんの宣告を聞いたとき、相手の身になり切ることはできない・身代わりになることはできないという、とても厳しい現実を感じました。そして、その現実を知ることが、「相手の身になって…」 という言葉の意味なのだなと思いました。

そんな経験から私が思うのは、同居をしている・していないに関わらず、家族ががんの宣告を受けたり、余命宣告されたりしたとき、家族にとって何より大切なのは、患者本人の気持ちをそのままに受けとめられるかどうかなんだということ。

患者となった親のために何ができるか… その思いはあたり前のことのように思えますが、私の兄妹がそうであったように、そんな親の思いを知ろうとするよりも先に、余命宣告というショックに負けてしまい、そのショックを親にぶつけてしまうということもあります。

だから本当は、親のために何ができるか・どうればいいかと思えるのであれば・思えるかどうか - が子どもにとって最初の難関なのだな、と思っています。
そして、親のために… と思えるのであれば、自分の気持ちではなくまず、親の気持ち・思いをそのまま、しかも自分のもののように共有したいと思うのです。

 

気持ちを分かち合うということは?

気持ちを受けとめる” というのは、できることなら、頭で理解できる というところを越えて - 自分も同じ気持ちで同じ選択をするだろうな と思えるくらい - 気持ちを重ねることができる、というイメージのように思います。

別の人間なのだから、そんなことが簡単にできるはずはない!? - そうです。それがあたり前だろうとも思います。
ただ、気持ちが理解できる・共有できるということと、その気持ちからの行動や言葉が違うというあたり前のことが、私たちを救ってくれるし、苦しめもするのだなと思うのです。これも、少し考えてみればすぐに理解できる、あたり前のことと思えることだろうと思います。

揺れてしまってあたり前、ぶつかったり迷ったりしてあたり前だろうと思います。けれど、余命宣告が示した時間を忘れてはいけないのです。

もしも、余命宣告に対する気持ちを重ねることができないままだったとしたら -
もしも、自分の気持ちが親の選択についていけない(と感じるような事態になった)としたら、それでなくても、時間は私たちを待ってはくれませんから、「あたり前」というには切ない・悲しい思いを通らなければならなくなります。

余命宣告に対する気持ちを重ねることができていればままだったとしたら -
対応する言動が違うという「あたり前」が私たちを助けてくれるだろうと思うのです。

患者となった親の気持ちが沈んでいたとしても、その気持ちを励ましたり高めてやりたいと思えるのは違う人間だからこそ。
その励ましや支えは、重ねた気持ちがあれば「親のため」という、時には厳しく、時には優しいものになれると思うのです。

患者本人ではなく、自分のこととして考えてみる

“人工透析を受ければ5年から10年くらいの余生を過ごせる可能性が高い。けれど人工透析をしなければ残った時間は1年から2年になってしまう。
それほど腎臓の機能が弱くなっているから、治療をするかどうかを家族とよく話し合って決めてほしい… “

この診断を受けれるべきなのだろうかと思ったとすれば、セカンドオピニオンを求めるという選択肢があるでしょう。

けれど、義母は意思を固めているといいます。
意思を固めているということは、命を問題にしなくてはいけないほど腎臓の機能が弱くなってきていているという診断を、そのまま受け入れたということ。

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自分ならどうするだろう? どう感じ、何を考えるだろう? - そう考えることはすぐにできるだろうと思います。
“気持ちを重ねる”、”思いを重ねる” と私が言っているのはその先です。

もし、自分ならこうするのに! と思う、親の意思とは違う部分があるとしたら、
親の意思にたどり着くには自分は何を諦めたり、捨てたり、目をつぶったりすることになるのだろう… そんなふうに自分を見つめてみたいのです

年だから仕方がないことかも知れない… そんなふうに、どこにでもありそうな、「あたり前」な切り口で親の思いを扱ってしまうのか。
「親のためにできることを」どこまでも大切にしたいと頑張れるか - そんな分かれ道になるような気がします。