囚われない自然体の自分 - そのヒントは「時間」

“自分はどこから来てどこへ行くのだろう” その、ずっと若い時から胸に残っている疑問は、1年2年、3年4年そして10年20年という時間をかけて少しずつ、心と体にしみ込ませるようにして探すもの - そんなものだと思うようになりました。

懸命に答えを求めたくなる年齢を過ごしてきたけれど、そんなに簡単に答えがでるものではない。
忘れてしまうことができないとは言っても、強引に答えを出すことなんてできない…

だから、答えを求めるつづけることと生きていくことは、もしかするとイコールなのかも知れないと、思ったこともあったのですが皮肉なことに、「時間」というものを強く感じた時に、その答えのかけらが見えたような気がする。それはとても不思議なものです。

 

人は… 、男は… 、人生はどうあるべきかなんて、暮らしていくのに必要だとは思えないことなのに、それが分からないと就職とか、結婚 - “人生の分かれ道” みたいに感じるイベントに対応することができそうもないと考えたり、とかくべき論で凝り固まって、自分で自分の視野を狭めていた - それかえって微笑ましく感じるくらい、これ以上ない! というほどに 「時間」をはっきりと感じることがあって、文字通り目から鱗が落ちる時がくるのです。

 

「時間」を確認した、そのとき

そして、その時探してものに “答えがなくても生きてはいける” という答えを見つけることができたりするのです。

 

父親はとても真面目で律儀でしたから、医師の見立てと違わず、「余命3カ月」、その通りに死にました。その3カ月、自分なりに、なりふりかまわず親父の看病はしました。けれども、父を取り戻すことはできなかった。あっという間に永遠の別れがやって来ました。
息子としていつかできる。いつかはやろう。そのうちやろう。
そう思ってきたこと、なにひとつできなかった。
どんなに泣いて反省しても、どんなに出世しても、どんなに神に祈ってもできない。
そういう「時間の限り」ってある。

出典:ひすいこたろう氏著・「あした死ぬかもよ?

どうしても心がそこにこびりついてしまいそうになるほど、時間の強い強い力を感じたのが、両親を見送ったときの「時間」。そのままではちょっと怖い「時間の限り」。そして、そのときは確実にやって来るということでした。

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自分や周囲の人たちを支えてくれるはずと信じて、普遍妥当な力、それを指示してくれる答えを探していたはずなのに、その疑問に一挙に答えを感じさせてくれたのがその「時間」でした。

しかも、ひすいこたろう氏が綴っているように、自分や周囲の人たちの心のあり方と重なっているのです。

 

・人と違ったっていいんだよ。
・恥をかいて人に笑われてもいいんだよ。
・もっと自分に素直に、ありのままに生きていいんだよ。
・すべての人と仲良くできなくたっていんだよ。
・大好きな人に「大好き」って伝えてもいいんだよ。
・自分の意見を主張してもいいんだよ。
・弱い自分を見せたっていいんだよ。
・嫌なことは断ってもいいんだよ。
・人に助けを求めたっていいんだよ。
・もっと豊かになってもいいんだよ。
・楽しいことを優先したっていいんだよ。
・幸せになってもいいんだよ。
・自分を好きになって、もっと自分を信頼してあげてもいいんだよ。
・生きたいように生きていいんだよ。

 

目を凝らして探し物をするうちに、そんな心の柔らかを失っている。だから、探していたものもなおのこと、分からなくなっていたのではないかと気づくのです。