終活 - 最後に残った大切なことを話そう

「迷惑をかけたくない」 - その言葉の意味

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葬儀をしない・お墓を持たない?

「子どもに迷惑をかけたくない」という思いからゼロ(0)葬を選ぶ人もいるという話しを聞きました。ゼロ葬という言葉、みなさんはご存知でしたか?

もう5年近く前ですがNHKの番組でも取り上げられたことがありました。ご覧になった人も多いでしょう。

家族が葬儀もせず、遺骨も引き取らない、墓も作らないことを、業界では「0(ゼロ)葬」とも呼んでいます。

出典: クローズアップ現代・「あなたの遺骨はどこへ ~広がる“ゼロ葬”の衝撃~

実は、そのNHKの番組に先立つこと、1年2年前からこのゼロ(0)葬を扱った報道はあったのですね。

「0(ゼロ)葬」という言葉を聞くと、父の遺骨を仏壇ならぬ神棚に置いて1年余りを過ごした母が、「このまま自分で持っていてもいいんじゃないかなと思ったりもするんだ」と話していたことを思い出します。

年上だった父が、せめて自分の年齢までは生きてほしいと残した言葉を力にしてがん切除の手術に臨んだものの、自分が願い、イメージしていたように回復することができず、がんの転移を知らされた頃に口にした言葉でした。体のだるさ、ものを考えることがむずかしくなるような倦怠感に悩んでいても、墓を用意して父の遺骨を納めてやりたいと思っていたはずなのですが、母は「このままでもいいよね?」と言ったのです。

ただその母の言葉が、私には「お前たち(子ども)に迷惑をかけたくない」という言葉に聞こえたのです。それを裏付けるように、墓を建てるのはどこがいいか、どんなデザインにしようかと望みを聞きたいと話しかけても、母はその望みを語ることがありませんでした。

確かに、葬儀はむずかしいものです。精神的に辛いと感じていたとしても経済的な負担を乗り越え、体力を絞らなければ進めることができないものですから。

失礼がない香典はどうすればいいの? とか、通夜と告別式、両方に出るものなの? とか。仏式ではなく神式の作法はどうすればいいの? 弔問に来てくれた人たちにはどう対応すればいいの? と、葬儀はあげる側になっても弔問する側になっても気を遣うものです。

その上、死亡診断書、死亡届、そして火葬許可証・埋葬許可証と言われるとなれば、専門家に任せることができれば… と思う人がいても無理はないのかも知れないとも思いますが …
私には、何だか切なさのようなものを感じる話しです。

世代と死生観の関係ってあるのだろうか

お中元とかお歳暮を考えることが減ったり。結婚は家と家のものから、夫婦になるふたりのものに。だから、結婚式もふたりの身の丈にあったふたりで創る式が好まれるようになったり。年賀状ははがきから電子メールになって費用も時間もかけなくなる。

核家族化の社会というものが人と人のつながりを切り離す方向に行くのだとすると、究極、結婚届とか世帯という概念もなくなっていくのかも知れないなと思ったりします。
もしかすると「0(ゼロ)葬」という形は、そんなふうに変わっていく私たちの死生観のひとつなのでしょうね。

「0(ゼロ)葬」をありうべからざるものだとは思いません。そんな葬儀もひとつの形 - 確かに、そうした価値観もそのままに受け入れられるのが私たちの世代だったはずですから。

ただ、何とはなしの違和感を感じてしまうのは、「自分は望んでも自分自身の葬儀をあげることはできない」という感覚があるからではないかと思うのです。自分は自分の始末をつけたくてもつけられない、それが分かっているのに、「迷惑はかけたくない」と言えるのだろうか - そこがひっかかるのです。

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肉親だというだけで、亡くなればそれだけで相手の思いに波風を立てないわけにはいきません。それでも「迷惑をかけてはいない」と思って逝けるのでしょうか?

つながりを求める? 核家族世代

母と私の名義で墓を建てよう。親父がこだわっていた家紋を刻んでもらおう。サイズは大きすぎるかも知れないけれど、親父とお袋ふたり専用のお墓だから… そんなふうに、最後や別れを語り合えないものかと思うのです。

土地の問題、石の問題。近隣の環境や金銭的な問題。誰が誰の名義で金を出すのか - 私たちの暮らしはそういうことを語り合う余裕さえなくなっている?! … もしそうだとすると、そのことが切ないのです。

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