病状に向き合い、治療の進行について行くということ

2006年6月に成立し、2007年4月に施行されたがん対策基本法の改正法が昨年2016年12月に成立しているというニュース - 2013年、14年にがんの治療に取り組んだ母に付き添っていた当時はこの法律の存在すら知らなかった、それが今になって私自身、驚いています。

がん対策基本法は2006年に、全国どこでも同じレベルの医療が受けられる環境整備や、政府が総合的ながん対策として「がん対策推進基本計画」を策定することなどを目的に制定されました。基本法の制定から10年経ち、がん治療が進み、治療後も社会で活躍できる人が増えてきた一方で、通院のため退職を余儀なくされるケースも増えるなど、新たな課題が出てきています。

(中略)

成立した改正法では、基本理念として、がん患者が尊厳を保持しながら安心して暮らすことのできる社会の構築を目指すことを掲げ、がん患者への国民の理解が深まるようにすることを求めました。

出典:公益財団法人 日本対がん協会・「がん対策基本法 改正法が成立

助けを求めるという発想はなかったのか

がん患者を支える家族、その家族も支えを必要としている - 当時、そんな言葉に出会ったときには、「家族として支えてもらわなければならない状態はどんなものだろう」という漠然とした疑問だけでした。患者本人のためには “インフォームドコンセント” という名のケアがある、自分たち家族は患者本人の選択を助け、主治医と協力していけばよい。そうすることで患者本人のための検査や治療ができるし、その成果が出てくれれば、患者本人と自分たちは救われることになるはず… そんな思いだけを信じていたように思うのです。

治療にかかる費用をどう工面するか、治療に対する不安や疑問をどうクリアするか - 家族はそれさえ確保できれば大丈夫だと感じていたのです。

治療のための経済的な問題や不安は、ひとえに自分の財布と相談する以外にないと信じ込んでいましたし、治療に対する不安や疑問を相談という思いで向けても医師に撥ねつけられる - そんなことがあっても、そういうものだと思う以外ないだろうと感じていたのです。セカンドオピニオンを求めたり、転院を検討したりという時間的な余裕があるとはとても思えなかったからです。

病院内にソーシャルワーカーという、治療や退院後の生活など、介護を支援してくれるケアマネージャーと連携してアドバイスをくれたり、相談に乗ってくれる仕事があり、担当がいるということを知ったのは、余命宣告を受けるほんの数日違いの前後のことでした。

そんな当時を思い出してみて、病状に向き合い、治療の進行について行くのに精一杯だったのだなと、今あらためて思うのです。

 

知っているということがどれほど支えになるか

母の受診、あるいは検査に付き添うため、埼玉県にあるがん専門病院に通った私でしたが、その最初の通院のときから驚いたのは入院・退院の受付窓口に並ぶ患者さんの数の多いこと。それは、受診や検査を待つ待合室にいても変わらず、用意されたソファにまったく空がなく、呼び出してもらうためのハンディ受信機を持って病院内のコーヒーショップにすわったり、敷地の中にある中庭を散歩するようにして待つということも少なくありませんでした。

診察を待っての待ち時間1時間というのは短い方だったかも知れません。
これほどにがんの患者さんがいるという驚きといっしょに、特定のがん、特定の年齢層や条件によって、数人に1人の割合いでがんにかかってしまう確率が… という話しも何となく肯けてしまうなと感じたものでした。

そんな付き添いの日常の中で私にあったのは、母の思いをしっかりと理解し、母の病をしっかりと知ることが自分にできる、自分がすべきすべてなのだという思いでした。どう病に向き合うか、それを母自身が決めることができるように、その手助けをしなくてはいけないと考えていたのです。

そして、その思いのどこにも、「助けを求める」という言葉がありませんでした。
唯一、余命宣告を受けたあと、自宅に戻った母が自分の生活を再開できるようにと考えた介護支援を求める契約を結ぼうとしたときに、「介護と医療の両面で母を支えてほしい」という意識でした。なぜか、母の生活の介助や介護は、母の気持ちを守るためにも、息子の私に代わって女性の介護師の方に助けてほしいと考えたのです。

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がん対策基本法 - その存在を知り、その一環で運用されている “がん相談ホットライン” とか “がんと診断された時からの相談支援事業” といった活動があるということを知ることができていたら…

私は選択に頭を悩まし、母を支えるための集中力をなくしていたでしょうか?
あるいは、より多くの人たちの支援を得て、母の思いを実現できているかということに集中できていたでしょうか?

その結果はそのときになってみなければ分からないののかも知れませんが、知ること、あるいは知っているということ - その力は、もしもの時に本領を発揮するのだと思っています。