生きるということの意味 - それは私にも答えることができるはず

私たちはふだん、どんな意識を持っているだろう

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矢作さんはその著書「見守られて生きる」の中の

お墓参りは「元気ですよ」という
ご先祖さまへのあいさつ

と題した章でこんなことを語っています。

今のあなたが持つ肉体は、あなたが生まれた家のご先祖さまが「つむいだ」結果としてこの世に存在するもの。魂の旅はそれぞれの人がそれぞれに続けるものとはいえ、この世で肉体を持つに至った感謝を欠かさないことは大切ではないでしょうか。

少々先のことになりますが、11月23日の勤労感謝の日は私の誕生日。そして、母のがん闘病に区切りを付けざるを得ないきっかけになった、母が「余命宣告」を受けた日でもあります。その日から数えて今年は7回目の誕生日を迎えることになります。

そうした思い出と格闘しているということはありません。
どれほど頑張って忘れないでいたいと思っても時間の流れにはあらがえず、思い出は少しずつセピア色になっていくものなんだろうと思っているところがありますから。

see what is irreplaceable for you
(c) Can Stock Photo / Paha_L

ただ、この短い一節を読んだとき、私の感覚はふと立ち止まったのです。そして、それは11月23日だからではないかと感じています。

両親やその両親、一人ひとりの生い立ちや生活 - 途切れることなくつながってきた時間があって、その流れの中に自分は生きている - 私には20代の若かった頃からそんな感覚があります。きのうが今日に続いている。今日は明日に続いていく - 「明日は明日の風が吹くさ」とは思えずに、明日吹く風は今日このときに決まるのではないのか… そんな感覚です。

足かけ7年に近い時間が経った今日も、11月23日に聞いた母への余命宣告、あの瞬間は今にどうつながっているだろうか… ふっと思い出すように思ったのです。

そんな時間のつながりにようなものを感じる一方で、矢作さんに言われる「この世で肉体を持つに至った感謝」を素直に感じることができているだろうかと思うことがあります。

私は生後1年を待たずに結核性脳膜炎という病気を患ったそうです。結核が死の病と言われていた時代、これ以上尽くす手はない、あとはこの子の生命力を待つ以外にないと言われたともいいます。

そんな生い立ちを持つ私は、生きるということを真摯に考え、向き合って生きていかなくてはならないと思ったこともありました。

私の闘病を支えてくれた両親。その両親を支えてくれた親族や両親の友人たち。そして病院の医師や看護婦さん(当時はそう呼ばれていましたね)たち。行き合う人ごとに私の知らない(覚えていない)時間を知っている人たちから聞く話しは、確かに病を克服してきた時間があったということを教えてくれたのです。

だから、時間のつながりを知ることはできる。そして、「今自分がここにいるということへの感謝」の意味もよく分かります。分かるつもりです。

その「感謝」の感覚は薄れたりすることがありません。

ただ、その感謝の気持ちは誰に向ければいいか分からないのです。分からないまま今日まで来ています。両親に対しても、親族に対しても、それ以外のあったことのない人たちにも感じる「感謝」のような気持ち - その使い方をずっと思いながら暮らしているような気がします。

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その感覚が “「この世で肉体を持つに至った感謝」を素直に感じることができているだろうか” という言葉になります。

「生かされている」 - 私の中にもそんな言葉があります。

その言葉、その感覚が、「感謝」の気持ちとしっくりひとつになったと感じることができる日が来るだろうか… そんなことを思いながら、11月23日への毎日を送っています。

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