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父と母それぞれを闘病の時間を過ごしたあとに見送ることになった私は、心身共に健康でいる間に、広い意味の Living Will を意識した暮らし方ができないものか - そんなふうに思ってきました。

自分のことは自分で考え自分で決めるんだ! という想いや意欲を持っていても、極度の貧血が原因して最後まで考え続けることができなかった・決断をくだすことができなかった母の姿を思い出すにつけ、”心身共に健康でいる” ということの意味を忘れるわけにはいかないと思ったりしているのですが…

 

健康だからこその Living Will

延命治療をしてほしいと思うか… どんなふうに送ってほしいと思うか… そういう話しができたのは - 父はすでにリウマチの症状に悩まされるようにはなっていましたが - 両親がともに健康な精神状態にあるときだったからだなと感じています。

結婚後も同居できるかとか、自分の住居を持つのならばこんな土地・こんな家に住みたいとかいう話しの延長のようなタイミングで切り出してみて、「縁起でもない!」と父に嫌がられたり、「私には葬式の形式に対するこだわりはないんだよ」という母の言葉を聞くことができたり - それは健康な時にする話しだったなとつくづく思うのです。

母ががんの宣告を受けたときのことを思い出せば、「残りの時間をどう過ごしたいかと思うか」というような話しは簡単に切り出せるものではありませんでした。

手術を受ける! という決意を聞かされたとき、同時に 「手の施しようがないとなったら無意味な延命はしてほしくない」 と聞かされた一言と、それよりも何年も前に話した「どんなふうに送ってほしいと思うか… 」への答えだけを頼りに、私は母の闘病に付き添ったようなものでした。

けれど、最後の輸血をするかどうかの決断をしなくてはならない私を支えてくれたのは、記憶の中にあった「無意味な延命はいらない」という言葉だったのです。

余命宣告は私たちに「時間」というものを強烈に意識させます。
けれど、残り時間が何時間あるか、時計のように見せてくれるわけではありません。

はっきりとは分からない「その時」を意識することが、いつの間にか1日24時間のほとんどすべてになってしまいました。闘病を続ける患者本人の母だけでなく、私たち子どもにとっても大差はなかったと思います。

少なくとも私の母の場合 - もちろんこれは「結果的に」というべきなのでしょうが - 医師からの余命宣告はほぼ正確に母の時間を示してくれるものでした。そして、「病にとりつかれてしまわないで」と励ますほど母にとっては辛い術後を過ごしたのです。

今このときをどうすれば自分らしく過ごせるか - ずっとそのことを考え行動していたような気がするのです。

 

その経験があるからでしょう、義母が余命宣告を受けたという知らせにもう一度、背中やお腹にぐっと力が入るような気がしました。

私の母のときは、もう手の施しようがないと決断しても不思議はない状況で受けた余命宣告、「3か月」でした。義母の場合は、慢性腎不全の診断と1年ないし2年という時間。しかも、義母本人が自分の口で医師に尋ねたものでした。そして、「痛みや苦しみのない静かな最期を」という希望とともに人工透析を断ったのです。

母と義母、その思いや覚悟がとてもよく似ているように感じるのです。

 

静かに付き添うために知っておきたいこと

患者本人の義母がより穏やかな最期をと望むのであれば、それを叶えなくてはと思います。そしてそのために、義母の体がどんな状態なのか、これから何が起こるのか、静かに付き添い見守るためにも知っておきたいことがあります。

腎不全になると血管系の合併症が非常に高くなります。
それは体内に必要なP(リン)とCa(カルシウム)の関連性に由来しています。

健常人であればリンとカルシウムは適正な範囲で維持されますが、腎不全になってしまうと体内に溜まりやすくなるため、血管が石灰化してしまい、脳血管障害や心筋梗塞などの合併症を引き起こすリスクが高くなってしまうのです。

過剰な水分の取り過ぎで心不全ということにもなりかねません。

出典:人工透析.xyz・「腎不全で人工透析になると寿命はどう変わる?

血管系の合併症というのはどんな症状のものなのか。脳血管障害というのは脳出血、くも膜下出血、脳梗塞などの総称でしょうか? 水分の取り過ぎというのはどれくらいの量のことでしょう??

水分代謝に障害が出るとしたら浮腫みがあったり、血管の石灰化と聞くと、血圧にも気を配る必要があるのでしょうか?

体に現れる症状もそうですが、母の時には、

  • 終末ケアは看護と介護を必要とすること
  • 貧血で思考が思うようにならなるなる・精神状態も維持できなくなるということ
  • 痛みをコントロールする終末ケアは治療をしない(それは無意味な延命につながるから)という考え方があること

そして何より

  • 最後の決断を医師から聞かれるのは、患者本人ではなくまず家族だということ

を最後の1か月2か月で認識・確認して、受け入れ、決断しなくてはならなかったような気がしています。
それとはさらに違う驚きや戸惑いに出会うことになるだろうと感じるのです。

余命を全うしたいと思ったとしても

何より、義母の症状は慢性腎不全 - 食べて体力をつけなくてはと言っていた母のときは正反対に食べ物に気をつけなければいけないと言われるものです。

特に義母が注意をするようにと言われたのが「カリウム」でした。
一言でカリウムと言いますが、献立を考えることができなくなるくらい、普段の健康な体ならばなくてはならないミネラルの一種です。

ほうれん草、小松菜、水菜など葉野菜のほとんどがカリウムの宝庫です。モロヘイヤ、にんにく、納豆などもカリウムの豊富な食材にあげられるでしょう。野菜は控え目に!? 野菜の煮汁をそのまま食さないように!? という注意をもらうと本当にメニューに困ります。

サラダはだめなのかな? 煮物は食べ過ぎにならないように? - そんなことを気にすると買い物も楽しくなくなってしまうと義母は言っていたようです。

 

医師のアドバイスはしっかり聞いて活かしたいものです。

ただ、義母は、気をつけて生活しようという思いと、気をつけなくてはならない(病気になってしまった)という相反する思いの間で揺れています。
その QOL (Quality Of Life) の最初のキーは気持ちの持ち方にあるのは確かだろうと感じます。

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残った時間がどれくらいあるかは分からない - だからこそ心は波立ちます。

だからこそ、私たち家族は義母が感じるであろう心配や不安を包めるように、より多く学んで、「最後」を口にすることを忘れさせてやれたらと思うのです。
少なくとも義母が自分から話そうとすることがあれば別でしょうが、もう Living Will を訪ねるタイミングではないと感じるのです。

あれが楽しい、美味しい、嬉しい - これが辛い、嫌だ、やりたくない… そうした一つひとつをそのままに受けて止めて「よかったね」「そうだね」と過ごす。それが付き添う・寄り添うということのはずだと思うのです。