終活 - “墓じまい”という選択肢

ちょっとむずかしいけれど、とても大切な問題?!

スポンサードリンク

NHK のクローズアップ現代で墓じまいを望む人が増えているという話題を取り上げていました。

核家族化が進んで親子は別々に暮らしている。親は自分たちが親から引き継いできた先祖伝来の墓を子どもたちに受け継いでほしいとは思わず、墓を受け継ぐ苦労を子どもたちに負わせたくないと考えて、自分の代で墓をなくすことを選ぶ - そんな人が増えているという話しでした。

しかも、そうした思いをサポートするサービスを提供する企業も紹介されていました。電話一本で簡単にサポートしてもらえる… そうです。

わが家の場合は、実家の売却から

私が両親を見送ったあとに考えたのも同じことでした。所帯を別に持ち、実家を離れて暮らしている - 築40年の実家に住み続けるにも高額の修繕を前提とした見直しが必要だけれど、仕事を続けていくことを思えば、周囲に空き家が増えはじめた実家の環境は将来性に低いとしか思えない。さりとて、自分の住まいと実家の二重の運用が現実的だとも思えない…

業者に相談してみても、もし賃貸として人に貸すならば数十万円ではすまないリフォーム工事が必要だろうという。それだけの費用をかけるなら、自分が実際に住んでいる住まいの方をリフォームしたいくらい…

そんなこんな、色々のことを考えた末に実家を売却することを決めたのでした。

turning-flower
(c) Can Stock Photo / Nanisimova

そして墓所は?

では墓はどうか?

わが家の場合、父が他界するのと、母ががんの闘病に踏み切るのが同時でした。つまり、母は、父の遺骨を手元に置いたまま手術を受けたのです。

私たちの世代とは違い、両親はともに墓は代々受け継ぐものという感覚の持ち主。母は、父の遺骨を墓に納めてやらなくてはと考えていたはずです。ところが母は、心も体もがんに向き合うのに精一杯で墓所のことを考えたくても考えられる状態ではありませんでした。

そして同時に、私たち子どもへの遠慮があったのだろうと思います。
自分たちは墓を大事に考えたいけれど、その価値観を押し付けるわけにはいかないだろう… と。

けれど、十分すぎる蓄えなんていうものがあるわけでもなく、後期高齢者医療保険の助けがあるとは言っても、がんの治療だけでなく、築40年の実家のメンテナンスであれこれお金もかかっていましたし、なんと言っても、年金生活をしている身では高額な墓所・暮石の売買契約を持つことができるとは思っていなかったのだろうと思います。

番組の中で紹介されていた人たちが口々に言っていたのは「子どもに迷惑はかけたくない」という一言。
その一言の言葉は、母の場合と同じような、少し切ない思いと表裏一体なのだろうなと想像できるような気がしました。

そしてそれと同時に私が感じたのと同じ、次は自分の番だという - 恐怖というような切迫したものではないけれども… 冷静に思いを巡らしているのだけれども… 確かに自分のところへ巡ってくるだろう時間というものを強く感じているのだろうなと感じました。

さみしさも感じるのだけれど

不思議だったのは、「電話一本で簡単に…」墓じまいができるんです、というくだりに何とも言えないさみしさのようなものを感じたことでした。

ということは、両親の遺骨を納めた墓に向かって手を合わせることで二人をしのぶことが私自身にとって自然なことなのかも知れません。
ただそれにも関わらず…

両親にとって終の住み家となった実家を人手に渡した感覚 - 実際にはさんざん考えて確認した答えでもありましたが - は、実家への愛着とか両親への思いというのは、私のものではあっても私の家族は同じものを感じることはないだろうという確信でした。私と両親の間の年月は私と両親のもので、分かち合いたいと思ったとしても、私の家族に同じ思いを感じさせることはできないと思ったのです。

冷静、客観的に考えてそういうものだろうと思ったのです。

私自身は、自分が最期を迎えるというときになっても実家や両親の墓を持って逝くわけにはいかない。家とか墓というのは文字通り、その人の人生観や死生観、家族観が価値を決めるものだろうと思います。同じ思いを感じることがないはずの家族に、実家や墓のあとを託すというのはやはり、どこか違うと感じたのです。

個性化の時代に最期を思う

ご先祖は大切にしよう… その思いに違いはないだろうと思っていましたが、正確に言えば違いがある… というのが正確なんだろうと思います。

大切には感じている、けれど、どう大切にするかが違っているのです。
大切に感じていれば “「どう大切にするか」という理屈が分離している” ということはあり得ない… それが両親の世代でした。大切だと思うのならば墓は守る! それ以外にない、そんな感覚だったでしょう。

スポンサードリンク

両親の遺骨を納めた墓には手を合わせるのが自然だと感じるけれど、立場が変わったとき、私も手を合わせてほしい・時には思い出してほしいとは感じていません。それも何か不思議な感じがします。

今はまだ想像することができないからそんなことを言っているのでしょうか?

個性化の時代 - 最期の迎え方も、墓所の意味も人それぞれみんな違う。そのバリエーションすべてを大切にすることができるなら、自分はどうしたいのだろう… ということを知っておかなくてはいけないなと感じるのです。

スポンサードリンク

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。