インフォームドコンセント - そこに自分が見えるかもしれない!?

“自分” のむずかしさがどこまで分かっているだろうか

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養老先生 - 養老孟司さんの著書「「自分」の壁 (新潮新書)」の中の “「自分」以外の存在を意識する” という章 - ちょっと哲学的? な視点で自分を考える章の中に、「身内の問題」という一節があるのですが、がんに対する待機的医療云々というくだりに思わず反応してしまいました。

医療とかインフォームドコンセントのことを語っているのでないことは分かっているのですが、ずれた自分の受け止め方を修正するためにもと思い、あえて反応しきって? みようと思います。

「がんと闘うな」に代表される待機的医療は、基本的には正しい。しかし、一方で欠けているという視点もあるように思えます。たしかに患者自身にとっては、「何もしない」がベターな選択肢でありうるでしょう。しかし、身内の人たち、たとえば配偶者や親や兄弟は、愛する人が重い病気だというときに「何もしない」でいられるかどうか。これは案外、重い問題です。
出典:養老孟司 氏著・「「自分」の壁 (新潮新書)

がんとともに過ごした時間を思い出してみる

親ががんに見舞われ、それでも検査も手術もしない! となったとき、
検査も手術も、回復の望みを持てることがあるのなら受けてほしいと願うあまり、親の思いを確かめることもなく、親を無作為・無気力だと言って責めてしまったり…

にも関わらず -

親は子どもの意を汲み、意を決して闘病に踏み込む。
それでも精一杯の治療の果てに転移に見舞われてしまう。
しかも、残された可能性・生存への望みは多くないときかされ、自分の状態を確かめたいと思う。
そして最後になるかも知れないと思いながらもその先の方向性を聞きたいと、自分の余命がどのくらいなのかと医師に尋ねる。
なのに、余命 - 命の終わりを確認しなくてはならない必要がどこにあったのかとまた責められてしまう…

私の一家は、そんな悲しいところを通ってきました。

だから、(著書本来の意味とはまったく違うのだろうと思いながらも)「がんとは闘うな」という言葉にうなずけるものを感じてしまいます。

ただ、患者やその家族の立場の、なおかつ私の感覚では、「がんとは闘うな!」と断定してもらう必要はないかなと思います。「がんとは闘わない、そういう選択肢もあるんだよ」- それくらいが妥当なんじゃないのかなと思うのです。

インフォームドコンセントのそばに本当の「自分」がいたかも知れない

治るか治らないか、切るべきか切らざるべきか - インフォームドコンセントの名の下に、患者が自ら判断して決定することがあたりまえなのだとしたら、尚更のこと断定はしてもらう必要がないと、少なくとも私はそう感じます。

養老先生は「案外、重い」と言っていますが、私の経験と私の感覚の中では、ここが一番重いと思っています。

だから、その重さゆえ、自分ではとても決められない - そうなったときは断定してもらえばいい。

ただ素朴に疑問に思います。
本当に断定のできる先生という人がいるのだろうか? と。

がんには対処できたとしても、患者や家族の心を救うことができるのだろうか? と。

冒頭に養老先生のこの一節は「待機的が正解とは限らない」という別の見出しの一説から続いています。
曰く…

・・・だからといって、「がんになっても何もしない」と言い切ってしまうのは乱暴です。明らかに治療が効果を示すがんもあるからです。それは近藤さんも認めています。
彼もすべてのがんを放っておけ、などとは書いていません。本のタイトルやコピーだけを見て、、「がんは何でもかんでも放っておけばいい」というような雑な理解をすることはお勧めしません。

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少なくとも、この一節と対にして読んではじめて意味が分かります。

私の兄妹のちょっと悲しい経験は、養老先生が語っている自分の意思や周囲の人たちの思いという意味合いの話しに重なるような気がします。

“「自分」以外の存在を意識する” の章で語られていることを理解するのはむずかい気がします。自分の考えそのものを信じすぎてはいけないということを言おうとしているように感じますが、もう少し時間をかけて読み解かなくてはいけないみたいです。

 

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