親であり、子であるということの大切さを確かめるために

自分を確かめる - その拠り所が変わっていることを理解する

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私たちを支えてくれる拠り所のようなもの - その昔、常識と呼ばれていたものにはそんな頼もしい一面がある一方、使い方を間違えれば、私たちを縛り、私たちらしい自由な発想や行動を抑圧し、私たちを傷つけたりもした。

そんなことを思い出してみると、常識に反旗を翻そうとしていたなと自覚している私でさえ、今は心の整理に苦しんでいる人がずいぶん多いのだろうなと感じます。

親子の関係というのは、いくつになっても難しいものですよね。

(中略)

たとえば、親孝行。「しなければならないもの」と思わなくていいと私は思います。したければすればいいし、したくなければしなくてもいい。重要なのは、親孝行をするかしないかでなく、親に対してどう思っているか、というあなたの感情なのですから。

出典:井上裕之 氏著・「がんばり屋さんのための、心の整理術 (Sanctuary books)

親孝行 - 誰もが「孝を尽くす」ことは人として正しいことと思っていた時代の方がある意味簡単だったなと感じるのです。もちろん、そういう安直な考え方があったから親孝行という価値観に苦しめられたり、悲しい思いをした人たちもたくさんいたのだろうと分かっています。それでもあえて、「ある意味簡単だったな」と言いたくなるのは、拠り所でもあったその価値観を外してしまえば - 「してもいいし、しなくてもいい」と切り替えるとすれば - 切り替えたあと、その人は自分の価値観をどうやって支えればいいのだろう? 自分の価値観を支えたいと感じることはないのだろうか?? その支えがないことが苦しくはないのだろうかと感じるのです。

もちろん、”拠り所” も支えであったのと同時に枷(かせ)・重しでもあったということを考えれば、一長一短、どちらも似たようなものということになるだろうと思います。

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(c) Can Stock Photo / Dubova

親孝行はする・しないではない

確かに、親孝行はする・しないではないだろうと私も感じます。

私の祖父母の価値観はするか・しないかで成り立っていたなと思います。
生み育ててもらったという親の恩に報いる… ということを求める人たちだったなと思うのです。

たとえば -
学業を積んで大学に入る、それも国立でなければ… 人様に、世間に認められる一門の者になるには然るべき学問を積むに越したことはない。だから高校を卒業したのであれば大学へ進学するのがよい。つまり、一門の者になりつつあることが世間にアピールできるというわけです。

逆に、大学へ進まないとすれば、なぜ学ばないかの説明に窮するというわけです。
今の感覚で言えば、一種の差別じゃないか! と思うのですが…

「仕事に上下の貴賤はない」というのはたてまえ。その実、どの仕事が優れていて、どの仕事はその仕事より上だとか下だとかいう感覚を持っている - 実は、常識 と呼ばれたものがその裏とか脇にそうした目に見えない、けれど暗黙の了解のようにひきずっているものがあったから私たちはそれを拒絶してきたのですよね。

けれど、親孝行 という価値観が持っていた良い面もいっしょにして親孝行という組織ごと切り捨ててきた、そんな一面もあったように感じるのです。だから、その良い面に支えられてきた感覚から、今の人たちはどうやって自分を支えることができるだろう?? という心配になるのです。

 

自動運転の自動車のように自分を支えることができるだろうか

自動車の安全を支援するシステムのひとつに “車線逸脱警告システム” という類の名前で呼ばれるシステムがあります。

センターラインなど道路の幅を確認する装置で自分の走行レーンを確認し、もしその走るべきレーンを逸脱してしまう・逸脱しそうになるとステアリングホイールを振動させたり、アコースティックシグナル(信号音)などと呼ばれる警告音でドライバーに知らせてくれるというシステムです。

今流行りの自動ブレーキなどと連携して、ある一定以上の速度で走っているような状況の時には減速してくれる… なんていう働きをする設定のものもあるかも知れませんね。

その昔、私たちの周りにあった常識と呼ばれたものは、考えてみるとこの逸脱警告を判断する基準という側面もあったのかも知れません。私の年代「人として…」ということを事あるごとに聞かされていたような気がします。

親孝行ではなく、親に対する気持ちが大事なんだ - 井上さんはそんなふうに語っています。

私たちが教わったように、「三歩下がって師の影を踏まず」が形だけだとすると「孝」とは言えない。だから、孝行した・しないということにこだわらず、自分の気持ちと向き合おう、そう教えてくれているように感じます。何が正しい・正しくないではなく、自分にとって親はどんな存在か、そう自分に問いかけてごらん - ということかも知れません。

いつか、その人とお役立ったということの幸せや大切さに気づくときも来るかも知れません。

それは、もしかしたら親が亡くなったあとになってしまうかもしれません。大事なのは、早いか遅いかではなく、あなたのなかにそういう感情が芽生えるときが必ずあると信じることです。

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親に対する本当の気持ちが自分で分かったとき - その気持ちに支えを求めるかどうかも決まってくるような気もします。

だから言い換えれば、今の人たち - 若い人たち - の方がかつての私たちよりはるかに大人で、その分苦労も多いのかも知れないと思うです。

できることならその価値観を分かち合える - 話すことができるといいんだがなと思いながら、親の、あるいは子にとって大切なことが何なのかに思いを馳せることは忘れないようにできたらと思うのです。

 

 

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