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ぼくらの心になくてはならないもの

人に対して厳しいとすれば、自分に対しても厳しくなければ… 人に対して優しい自分であるためには、自分に対しても優しく - 自分を大切に - できなくては…。

両親や兄妹との関係や職場で仕事仲間と自分の関係を考える機会が増えている私は、20代の頃に持っていた “人や自分に対する感覚” をもう一度確かめることが多くなっています。

そんな中に、自分の場所を見つけられない仲間がいます。彼らとどうすれば一緒に歩めるのか… そのための答えを探しています。

自分の場所を見つけられない - それは言い換えれば、自分に対して厳しすぎたり、自分で自分を認めることができない、そんなタイプの仲間たちです。

そうやって、これまであなたをがんじがらめにしていた「~しなければならない」という感情から解き放され、心の痛みが少しでも和らいだら、今度はゆっくりと「どうすれば毎日、あなたが心から健やかで楽しい状態を作ることができるか」ということを、見つめ直してくださいね。

そうはいっても、人は楽しいことばかりできるわけではない。
他の人はそう言うかもしれません。でも、それは錯覚です。

たとえば「仕事が楽しくない」と思っているとしたら、その仕事に対して別の意味付け=解釈をしてみる。楽しくないことをすることによって自分は成長した。成長というのは誰にとっても楽しいことですから、そこで楽しくない仕事が楽しいものに変わります。

出展:井上 裕之 氏著・「がんばり屋さんのための、心の整理術 (Sanctuary books)

 

人間は比べるもの?

信条とか信念と言えば、自分を支える確かなもの… そんな好ましい感覚がどこかにありますが、自分以外の人と対面したとき、その自分に対する思いが前に出過ぎるたり、外にばかり向けられるようになると、思い上がりとか傲慢と呼ばれるようになってしまう。

あるいは、自分以外の人と対面したとき、自分を外に向けることができず、内にばかり向いてしまうと、コンプレックスとか劣等感と呼ばれるようになってしまう。

自分の場所を見つけられない - そんな仲間と話しをするほどに、心のバランスを取るというのはむずかしいものなんだなと感じます。

比べ方 - 我が強く、自己主張が強いという人の場合

思い上がりとか傲慢と呼ばれてしまうようなとき、彼(あるいは彼女)は自分のことがほとんど分かっていない。
自分を認めさせたいと思う気持ちだけになって、周囲よりも前に出ようとする。その時彼は、自分と周囲を比べて自分を正当化しようとします。

そんなふうに自分を伝えよう(主張しよう)とするほどに、自分を周囲から遠ざけてしまいます。

比べ方 - 自信が持てず、自分に迷う人の場合

コンプレックスに悩んだり、劣等感を抱いている彼(あるいは彼女)は、周囲と自分を比べることで自分を確かめようとします。
そして、自分に足りないものがあることにとりつかれてしまって、自分を見るということができなくなってしまいます。

周囲と同じでなければと頑張るほどに、自分を周囲から遠ざけてしまいます。

私の近くにはそちらのタイプの人が多いのです。

プラスにもマイナスにも偏らないようにバランスを取る - もしそんな言い方をしてみると気がつくことがあります。
バランスが取れた自分がプラス・マイナス ゼロだとすれば、プラス、マイナスの2つとゼロの間の比較をしているからバランスが取れるのですよね。比べるからこそバランスが取れるのです。

 

自信は自分を表現することで育つもの

大人になって、社会人だと呼ばれたり、社会人という自分を意識するようになっても、井上さんが語る一節のように自分を真ん中にした話しをしていたい… 自分のことを話すということが必要なんだなと感じます。

20代、30代、あるいは40代、50代と時間が経つほど、その自分を話すということができなくなっている… 身近に暮らす仲間たちにそんな苦しさのような、さみしさのようなものも感じることもあります。

もちろん、そういう重い、マイナスな雰囲気のものばかりではありません。
エネルギーにあふれた、充実して過ごす時間だってあります。一日を満足して終えることができる… そんな時間の方が多いかも知れません。

けれど、重くてマイナスと感じるものは明日を続けることを邪魔することがあるもの。そして、目の前の仕事に集中したり、余暇を過ごしているときには意識せずにいられるものだから余計に、自分だけのものになりやすいのですね。

日本人が持つ心のブレーキ

特に私たち日本人は自分のことを外に向かって表現するということに強いブレーキを持っています - 少なくとも私はそう感じています。

自分の気持ちや考えを表現する・表明する、それは大義とか理由がはっきりとしたときに許されるもので、軽々しく言葉にしたり態度にしたりするものじゃない! という感覚です。
仕事で仲間に手助けしてもらったときに最初に出てくる言葉の多くは 「お手数をおかけしてすみませんでした」 という相手を敬う言葉です。「ありがとうございました」 は最後です。

もちろん、私たち日本人の礼節を大切にしようとする思いから出る言葉だということは理解しています。
けれどその延長で、仕事で手助けを求めるということは避けるべき、場合によっては忌むべき!? ことだと感じる感覚自体がブレーキにもなっているのです。

つまり、たとえば職場は自分の思い - 本来の自分を出せる・出してよい場所ではない、という感覚がある。

 

公私を混同すべきではない! ということを言うことがありますが、職場=「公」であり、自分=「私」だと言うのであれば、かなりおかしな話しに聞こえます。

相手の言っていることを「私」のことだと決めてかからなければこのセリフは出てきません。
ところが、「私」のプライベートが充実していなければ、「公」の場だという職場で十分な力を発揮できるはずもないのですから。

たとえば、自分の結婚式に仕事の上司を招くのは公私混同ということになるのか!? と考えてみるといいかも知れません。

 

心療内科の医師の助けを求めて自分を取り戻そうとしている仲間のことを思うと、自信とか信条、あるいは比較するとかしないとかいう話しが彼らを支えたり、理解することにならないということもよく分かります。

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分かるだけに、「20代、30代、あるいは40代、50代と時間が経つほど、その自分を話すということができなくなっている… 」ということの意味を自覚していなければと思うのです。

もう大人なんだから… その年になって今さら… 子どもを持つ身になれば分かること… … そうした先入観があれば彼らを理解することはできないでしょう。自分の思いを表明する・表現してもらうなんていうことは望むことができません。公私混同… という受け止め方も同じです。

お互いに、先入観という邪魔なものをそぎ落とすことができるかどうか - そこに大きなヒントがあると思うのです。