悲しみのときこそ、悲しみを受け止めて

何人もの自分 - けれどすべて本当の自分

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悲しみ、後悔、失意、怒り、罪悪感等、湧き上がる自分の感情はどのようなものでも、受け入れて表現する事を恐れないことです。
自分自身の感情がコントロールできない、泣くのはみっともない、弱い人間だからと自分を責める必要はさらさらありません。
悲しい時は悲しい自分を認めてあげることでとても気持ちが楽になります。

出典:星川 碧 著・「「悲しみ」とのつき合い方: 〜大切な人が亡くなった時に読む本〜

確かにそうなんだろうなぁと思います。
ただ、

湧き上がる自分の感情はどのようなものでも、受け入れる

ということは言葉で言うほど簡単なことじゃないだろうなとも思うのです。

人間の感性というのは本当に不思議… というか、複雑というか… なんとも表現のしようがないほど、自分でもどうにもならないなという面がありますよね。

その時の感情が楽しさ、嬉しさにしろ、切なさ、悲しさにしろ、ひとつを感じながら、そのひとつを感じている自分をもう一人の自分が見ている・感じたり、何らか評価したりしているのです。

たとえば -
何かひとつのことをあれこれ思い悩んでなかなか自分の気持ちを定められない友人がいたとして、その煮え切らない様子に [1] 苛立ちを感じながら、アドバイスを続けてやらなくてはと思う[2] … そうしながらも、はっきりダメ出ししてやることが友人のためにも自分の気持ちのためにもなるんじゃなかろうかと思ったりする [3]

この例では自分が3人重なっています。
この3人分の自分が星川さんが言われている「湧き上がる自分の感情はどのようなものでも」にあたるのじゃないのかなと思います。しかも、こうした自分自身のだぶりのような現象は、日常茶飯事に起こることだろうと思います。

だからこそ星川さんは

自分を責める必要はさらさらありません。

と言っているのでしょう。ただ、じゃあやめよ! と言って、自分の感性や感情の方向を簡単に変えられはしないのです。

形はどんなものであっても、何かの感情が湧き上がってくるのが普通なのだとすると、だぶった自分自身をそのままに - 違和感を感じることなく、自分を責めず - 受け止められるようになるには、かなりの訓練が必要だろうと思います。

でもそれが分かっているからこそ、湧き上がる感情のままに… という言葉があるのだろうと思うのです。

悲しみが大きいほど…

私の場合は、どこか何かの感情が抜けてしまっているのじゃないだろうかと思うほど、反応が鈍いな!^^; と感じることがあります。

たとえば、父や母が亡くなった時 -
あとを受けてあれこれと手配や始末をしなければならないことが続きます。喪主となれば誰でもそうでしょう。自分は悲しんでいる時間がありません。

「悲しんでいる時間がない!?」ということを頭で理解して、その頭で理解したことが悲しみのような、自分の感情に蓋をしてしまうのです。蓋をしてしまっているな… と自覚することももしかしたら避けてしまっていたかも知れません。次から次へと持ち込まれる判断に対応することで悲しむ感情そのものをどこかへ押しやってしまうのだろうと思います。

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ただ、胸が痛くなるのですね。
無理やり感情を押し殺しているという自覚はないけれど、本当の感情はここにあるのかも知れないなと感じたことはあります。涙もでないし、目の前のことを変わらずにこなしているけれど、胸が痛くなるのです。

自分でも扱いに困るほど自分の “だぶり” は簡単に起こるし、それを止めることもできない。

悲しみを感じている自分も嘘のない自分。泣かずに喪主をつとめなければ… と頑張る自分もやはり嘘ではない。正直な気持ちをその気持ちのままにしておいてやるのも、自分自身を受け止める勇気のような、正直さのようなものが必要になる。でもだからこそ、「恐れずに」なんですね。

 

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